液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


8か10ヶ月くらいにおいて部屋の模様替えというか、家具の配置換えがしたくなる、というか、なんか、むずっとくる。今の状態はよくない、かえなくちゃというかんじ。これも中学生のころからあるような。幾度となく繰り返されてしまう。日曜の朝から夕方まで一日がかりでどっと疲れる。どうにもものが増えていくことに対処せねばならない。こうゆうことをするたびに処分するものも発生してるはずなのに今回もまたごみ袋が1つ満杯に。
増えていく「もの」の代表に、本と写真がある。こりゃ、気付くと増えてるもんだなあ。お金あるわけじゃないからそんなに買ってないはずなのに。写真もまあ昔に比べたら少ないのに。プリントした写真はアルバムにおさめていくが、そのアルバムも結構な量になってきている。これらはこうゆうことするたびについつい見返してしまう…。そのたびに胸がきーんとやられる。感傷主義だなあ。
とりあえず今回は窓からのあかりを全面的にとりいれられる配置に。あかるく広く感じるようになった。ものでごったがえしていながらも。きっとまだまだ捨てていいようなもの沢山あるはず、クローゼットの奥などに…。私はとにかくものをためがちだ。お菓子の缶とか箱とかたくさんあったけど、使わないのは潔く処分。今死んだら処分させられほうが大変になるし!と思って。
でもずっといつもやっぱすてられないなーと思うのが、中学生のときに大量にやりとりした友達との手紙類。封筒に入れた正式なものじゃなく、授業中とか、もうすんごくくだらなくどうでもいいようなことをやり取りした手紙。なんか、いろいろな形とかに折ってあったりする。当時はメモ帳サイズのものが流行っていて、それをもう生産するようにむだにやりとりをした。ほかに、塾でも違う中学の子ともよくした。思いだすとああはずかしなことがらも。こんなん残ってたら死んだときはずかしいわと思うも、捨てられない。大量ばざーっとあるけど、あけてはまたしまう。これをすててしまっては、自分が消えてなくなってしまうように思う。自分がどうできあがったかの一過程、一部分がこれをすてたら、あっと簡単に消失してしまう。どうでもいいような過去の一面だけど、形あるものとしてこれがあるかぎり、手ごたえを感じられる。
さて気を取り直さねばだな。



時々ふっとなんで私はこんなに当たり前のように電気のある家でテレビがついてて冷蔵庫にも棚にも沢山食べ物があるとこでおいしいご飯を食べてられるんだろかと不思議になる。私なんもしてないのに。どうして自分はこんな暮らしができているんだろう。無数のものはどうして手に入れられてるだろうか。私はなんもしてないのに。
それはこの家に、両親のもとに生まれたからだろうか。二つ上の姉が生まれたころは、父の給料が12万くらいで、それで家族3人やってくのは大変だったらしい。こりゃだめだと思って私が2歳になるころからまた母は外で働き始めた、というが、だったらなんで私産んだりしたんだろうとまあそぼくな疑問だ。
家にあるほとんどすべてのものはお金からきている。お金と交換されて。そのお金は両親が外から得てくる。それがいまいちよく把握できないのだと思う。私自身が自活できなきゃわからないのかも。
世の中は色んな仕組みでなりたっているというのに、私はほとんどわかってない。母は保険の仕事をしているけど、私はまったくそれがよく理解できない。保険てものが存在すること自体、ひじょうにふしぎなものだとは思う。それにしても両親が死んだらどうなるんだろうということをふとふと考える。でもまあいつかはだれしも死ぬしなあ、そのときってどんな感じなんだろうということをついつい想像。自分はどんな気持ちにたつのかなあと。まあそんなことを考える暇があるくらいなので、こないだ高速道路に乗るバスにも乗ってみた。長距離とかでなく、ふつうの路線バスなんだけど。高速のってるのは3分くらいだけ。でも平日のぴかんと晴れた昼下がり、乗客5人くらいの日常的なバスが突然速度あげて高速にまじわっていくのはわくわくして日常からさらに離脱していくようでおもしろかった。