昨日は朝から母が財布を忘れたので駅まで車で届けねばならなくなった。一人で運転するのはまだ慣れない。しかしまあなんとか行って帰ってこれたのでよかった。駅周辺はバスもいっぱいいるしでこわい。なんか間違ったことしてるんじゃないかとびくびく。家の車庫入れは平気になってきたけど、外はやっぱむずかしい。空間把握がつくづくできない。それにしても自分が運転席に座ると、ラジオの音がすごくうるさく聞こえて耳障りに思う。でも消すのもいやだしと、音量をさげる。聞いてる余裕ないように思うけど。そんで窓が全部閉まってると外の音がすごく遠い気がしてきて不安になるのでなるべく窓を開けたい。ふしぎだ。他の席にいる時は気にならないのに。家の車にはじめて乗った時は、ウィンカーの音が異様にでかい音に聞こえた。え、こんなにカチカチうるさいっけ?と思った。今はそれは思わなくなった。教習所のときは常に無音で先生と二人でのってたのかーと思うと不思議。まあでも今になってこそ色々注意された点を思い出してはそれらの実施がほんと大切なんだなーと思う。その当時は常にいっぱいいっぱいで余裕なくて言われたことすぐに実践するのがなかなか難しかったな。まあ今もしばしそうだけど。運転の責任はでかい。こわい。たいへん。



それでまあようやく安定してきたかな?と思う。なんだかんだで1カ月以上変化の激しさがあったような。先月の事がすごく遠く思える。はるか昔。まあただ今年はうお座の幸運期といわれているので、今はがんばらねばと、なるべくその流れからおっこちないようにといった思いがあった。まあべつにいいことが何か起こるわけではないだろう。だけどそう言われてるんだから、何かしなくちゃいけないんだろう、と。
10月に書類選考は通過し一次面接に行ったところは、予想通りだめだった。この、予想がついてしまったとこにその日からの気持ちのどんぞこぶりが始まる。3人のグループ面接で、面接する側は5人いて、その数十分のなかで、ああもう絶対受からないなということが、ありありとわかってしまった、感じてしまった、さらにひどい事に面接官からなにか否定や非難の目で、白い目で見られているという風に私が強く感じ決めつけるまでにいってしまい、自分の無能さや不全さをざあざあと感じる状態になってしまった。帰りの電車の中で頭が呆然として、まっ白なのに涙がぐじゅっとうかびあがってきて、なんて、17歳のときぶりだと思った。
受からないということが自分でわかってしまう予測できてしまった、ということは想定外というか、これまでに経験がないものだった。かなりの応募数だろうこと、採用数は数人だろうこと、受かる可能性はだいぶ少ない事は一応自分でもうけとめていた。それでももちろん受かりたいと思って1か月以上前からずっと考え続けた。だから、面接の中でなんだか明らかに受からないであろう要素をひとつひとつ見つけていくうちに、ここに来た意味さえまるでないように感じられていくほど、予測がついてしまったのは、落ちた事実よりなによりショックになってしまった。
まあほんと私の弱点だけど、そうこうあると、完全すべてシャットダウンしてしまうんだなー。しかも自分じゃ言われるまでそのことに意識的になれてないという。無意識のうちに自分が自分の奥へとひとり進みこみ、自分のことばにとりつかれ、そこがすべてとなって、なにもかも開かなくなってしまう、声を出さなくなる。自分でも、今から思うとその状態の世界はとてもこわいものに思う。私はそこに入ってしまうと、例えば今のような状態とまるで違う考え方をする人間になってしまう。すべてをなくす。すべてを切断し、断絶し、どんどんと自分だけのうずに入っていく。涙を流すだけ過去と繋がってしまう。涙で繋がることによって、過去は終わっていないと感じる。自分の不明さ、無能さ、不全感がつのる。面接の次の日、いつもより2週間くらい遅れで生理がくる。自分じゃあんま気にしてなかったけど、どっかで緊張や圧迫感があったのか。生理は率直でえらい。
こういった状況を自分でコントロールできないからいけないんだろうけど。まずなってはいけないのに。気持ちのコントロールなんかじゃない。気持なんかで動いていない。ネガティブなことは考えないなんてわかってる。そんなものじゃない。たぶんそんなふうに声を荒げたい私がいる。どうしても未だにそれはコントロール不能のものに思える。だってそのときにはもう私がいなくなっているような気がする。コントロールすべき私が不在で、なにか違うものにとても自然に操作されるように、なめらかにそこへ移行するような感じがする。頭から何かが流れてくるようなかんじがする。まあでもそれってつまり意識の私が逃げてるだけでは。いやーそれじゃますますよくないのでは…。やっぱ私はひたすら逃げてんだなあ。逃げ逃げで生きている。だめだ。
まあそれからはいつものようにじょじょに回復していく。ここが私のいやらしいとこだなと自分でも思うけど。それでふっきってがんばんなきゃーと思って、求人広告は常に探して、それで見つけた来年新設されるという介護施設会社説明会へ行った。パートで資格なしでも大丈夫だったので挑戦してみるいい機会かもと思って行ってみたのだけど、会社の色々を見たり聞いたりして、色々ひっかかる点があるのが気になった。そうゆうもの、としてわりきって働かなければならないところが沢山あるものかもしれない。それでも気になってしまって、決意の気持ちゆらぐ。
しかし次の日見つけた求人に、県の委託による若年者向けの就職あっせんといったような事業の募集を見つける。調べて予約して、説明会と面接とに行った。面接はきっちり色々聞かれたし、事前に送られていた質問事項にも今までの就職活動に関することなど色々書かされる。無制限受け入れではなく人数規定もあり、面接でしぼられちゃうのかなーと心配したけど、次の日電話があって、合格。来月から約一カ月は研修、その後県内の企業へ2か月、この3ヶ月間は県が委託した派遣会社への契約社員となって、その後は企業に採用してもらえれば、というのがねらいの流れ。そのサポートに派遣会社がしっかりついてくれる。
合格とは言え、その先はあまりにまだまだ不確定のことだらけで、心配やら不安やら風邪ひいたやら土日もひとりぼっちにされるやらでなぜかここでまた一人でうずをまく。ちゃんとできるかなーという不安がイメージをまきちらしてしまう。小さなくすぶりだったのもあって、打開できそうでできなかったりの日々がつづいたけど、生理がきて、っパーんとはちきる。私は生理くるとほっとする気分になる。ふっ切れたーってかんじで、内の方が開放的になるかんじ。どうじにずごーんとした生理痛で呼吸するのがくるしくなる。いやーほんと生理ってのは自分の体内や体調を、いろんなもの一気に背負って姿を現わしたり隠れたりで示してくる、えらくすごいもんだなあと思う。
とりあえず来月になってようやく始動なるか?はては?というぐあいで、来年結婚して仕事もやめるつもりという友達の話など聞くと(もう仕事やめて好きなことはじめた人もいる)、ああなんて違いかしらんとぼうっと思う。まあでも同時にちゃんと就活してちゃんと就職したのにと思いながら、でも、みんないつのまにどうやってやりたい仕事なんて見つけられてたんだろと学生の時から不思議だったので(強くやりたい職種のことを言ってた人はべつ)まあ辞める話を聞いても、ああそうゆうものなのか、と思う。こういった話も参考になるというか、仕事、働くとは、いろいろなんだなあ。私はずいぶん遅れてきづく、どんだけ遅いんだろうと思うと、開き直りそうになってしまう。そうではなく、認め、改善努力しなくちゃなんだな。とりあえず来月にはじまるまで、読みたい本どっと読んでおくぞ。



図書館からの本もないし…となんとなしに棚から漱石の『彼岸過迄』をとりだして読んだ。やっぱり漱石おもしろいよね、よませてくれるよね、ってのと、ああやっぱ冷たい、もう物語知ってるから読み続けたくないくらいに思った。冷たく他者の入り込む余地を持たないかなしみが、どうしようもないものとして立ちはだかっていて、その強固な完璧さに、まあおののいてしまう。
半分も過ぎたところで突然語り手が友人・須永に変わるが、この唐突さはだいぶ唐突だけど、『行人』と『こころ』も同じような感じだよなと思ったら、ああそっかこの2作品の前に書かれたのが彼岸過迄だったか。まあこの作品は短編の集まりみたいなものとして形にしたらしいので、須永の話、松本の話、と区切られてもおかしくないのだろう。でも、それまでののほほんぶりから一変し(探偵ごっこのくだりもとても好きだけど)、主人公は須永であったと知らされるところに、ひじょうにどきーんとする。
須永は行人の兄や、こころの先生と同じように漱石がそのまま投影されてそうなかんじの人間。また男と女の対立具合も似たものと思う。どれも読んでてすごくひきこまれるけど、読んでてどんどん自分の体感温度がさがってくような冷たさがこちらへしみ込んでくる。まあでも私はまさにこの後期三部作すきすきだよね、と思う。
ところで今回久しぶりに読み返してて思ったのは、漱石が作品を書いている明治終わりころの時代というのは、今とは随分言葉の扱い方が違うのでは?ということ。それとも漱石の作品の特徴としての登場人物たちの言葉の使い方なのか。小説だからこそなのか?なんていうか、登場人物たちはそれぞれに親しい間柄(簡単に説明のつく性質を持たない人たちだが)ながら、私から見るとずいぶん容赦ない言葉を言い合っていることに結構驚く。あなたは卑怯だ、僻んでいる、軽蔑している、見縊っている、不親切だ、といったような言葉を互いに投げかける。まあ、日常的な場面でだれしもが平気で使うということはなかったろうけど、漱石は特別これらが蔑む言葉ではないように、へいきで使っているように感じられる。私からするとこうゆうことは他者に言わないし使わないし、けっこう言われたら傷つく気がするが、物語の中ではそんなに敏感な言葉でなく、ただ真正面から向かい合って言える関係性ゆえに言える言葉として、またそれを互いに率直に私が感じる印象とは違った言葉の筋として受け取ってるように感じられる。まあこうゆう言葉使う登場人物たちはそれぞれに鋭さをもった人々だから、だから使えてるのかな?とも思う。いやでもそれにしても結構らふに使ってる感じがある…。
まあこういった言葉にかぎらず、言葉のかんじの違いは沢山ある。漱石はどこまでも言葉を巧みに扱っているように思う。ゆえに苦悩があるように思う。知識人の苦悩。たいへんだなあっていう他人事感もありつつ、その答えのなさにほれぼれしているのかも。それは何にも隠されない、事実、真実でもない、どうしようもない、ままの、ありように思う、見るのかも。



それで漱石読み終えて久しぶりに小説読んでみるとそうか小説読んでると頭すっきりするな〜と思って(しないのもあるな、と思ったけど)図書館行って、映画の最新作を見るのにそなえてハリーポッターシリーズを読むことに。気づくと漱石とロンドン繋がりでなかなかはずれていない。棚に出てるのはほとんど貸し出し中だったので、児童書庫から出してもらう。検索パソコンでピっとやったら紙がでてくるのでそれ渡すだけ、なんて簡単な。うらわのとこは貸し出しと返却も自分でできる機械あるし、ほんと近頃の図書館のハイテクさはすごい。でも大宮や北浦和など、昔からあるとこは新しい機械ないかも。新しいとこはきれいでいいけど、やっぱ古いとこのほうが図書館的においになどよるどすがきいたとこがあるなぁと思う。
死の秘宝はなかったので、3作ぶん、5冊借りる。重…。1冊につき6時間くらいかかるかも。でも読み始めると、とまらない。小学生のころから童話とか児童文学などを全然興味持てず読めなかった私は、ああ私ってそうゆうの読めない人間なんだなーと思ってきたし、去年までずーっとハリーポッターなんて興味の持ちようがないと思っていたけど、おお、読めるじゃんわたし!と小学生以来の固定観念がくずれる。そう思うと、こないだ美容院行っていつころから髪の毛多いこと気にしてました?みたいなこと聞かれて小学生のころには嫌だと思っていたと答えたのとあわせて、やはり小学生という地点でかなり自分の考え、ものの見方ってできあがってるんだなと思う。それはその後変わっていく可能性あるとはいえ、小学生だからこそすごく断定的な狭い個人的なものの見方になるのかも。
日本語翻訳のハリーポッターは読んでてどうも変だなと思うとこは多々あるものの、映画作品はとりあえず全部見ている私には原作だとこんなに裏話がたくさんあるのかと驚く。映画で描いてない部分沢山あるんだな。色々な細かな要素の必然性が原作だと筋が通っていて映画じゃ流れにまかせて見てたとこが随分明るみに出る。各登場人物の見かたも変わるなあ。
新作見たいとこだけど、原作読んでからにしたい。去年公開された謎のプリンスの宣伝CMがはじまったとき、少し前に行ったロンドンのミレニアムブリッジが出てきてそれがぬおおおおと破壊される、というシーンがあっただけで、ハリーポッターに興味を持てた。なんて単純な…と思うけど、イギリス行ってイギリスに興味持つようになってそれでハリーポッターを見ると、なんかよけいおもしろい。イギリスで生まれた物語、ということを理解できるのがおもしろい。イギリスだからあんなお城や丘や緑や汽車や橋や制服や言動が物語に息づいているんだと、土地と繋げて見れる。それだけでこんなに変わるのか、わたし。
まあ映画は結構いろいろ違和感感じることもあるけれど、魔法がうまく映像化されてるの見ると興奮するし(私はダンブルドアが杖で記憶を頭から煙のようにひも状にひっぱりだすのがすごく好き)、ハリーポッターたちを見守る大人、先生たちを演じる役者さんたちがすごくいいというとこに見応えはある。こんなに世界中でメジャーになってるものに自分がのっかれるのも、また楽しい。そこにはそこの世界があるのだなー。



ドラマ『SPEC』は、はじめケイゾク2と言われていて、改めて考えてみるとケイゾクとは私がようやくなんとか意識的にすきと思う気持ちを抱いて見ていたものだったなと思う。中学生の私には捉えきれない情報量があふれていて、よく意味がわからない、つながらないこともあったけど、その意味のわからなさ含めての魅力があったんだと思う。今でもその頃の惹かれていたふかかい感ってよく覚えている。最終回でかでなんでか突然銃で撃たれるシーンがあって、え、なんでこんなことに、いつのまに、と思うと同時に、うわすごくきれいっときらめき思った。意味のわからなさ、とはそこそこ重要なのであった。
それでこないだSPEC見てて、終わりの終わりにたたみかけるようにして情報をテンポよく理解を与えることを無視して重ね合わせて一気にエンディングにもってく、という手法を目にして、あ、きっと、こういう感じがケイゾクでもあったのかもしれないと思った。CGだかスローモーションやら使ってることによる違和感がこういうとこでうまく作用してるように思えた。意味のわからなさと違和感とが奇妙さになって疎外されてあやうく置いていかれる。
しかしまああたりまえなんだけど、中学生の時と同じように見ることはできないわけで、どこかかなしくむなしさを覚えないわけにもいかない。



あすはピットインでアルタードステイツplaysキングクリムゾン。先月チラシで知ってから、母が昔聴いてたとか言ってたなと思ってまだレコードあるかと聞いたらもうないという。ちぇ、と思ったら母もまた聴きたいというのでちょうど下北へ行ったのもあって買うにいたった(母はなぜか下北で買うことにこだわった)。ジャケットはそりゃ見たことあるけど、の、クリムゾンキングの宮殿。こんな形で聴く日がこようとは、ってかんじ。私は昔から洋楽聴いてないので、とてもうとい。これからも大して聴くことはないだろうと思っていた。これまで広がりをもって興味持てなかったし。
しかしプログレということ、イエスと近いかな?というのもあってあんま疑いなく聴けた。でも予想より静かっていうか暗いっていうか、どよーんとした空気感があってびっくり。イエスはもっと全体的に音が派手でプログレがそれってイメージだったかも。でもまあアルタードステイツも暗く静かなとこあるか…。歌のあるなしもあるし、アルタードも2.3回しか見てないので詳しくなく、まだまだわからないプログレのせかい。まあはっきり決まったとこはないのか。でも、このちょっと不穏で暗くてっていう感じはイギリスの曇天っぽいかんじするな、とか、この時代の空気なのかなとか、勘ぐることはできる。サイモン&ガーファンクルの歌詞もやっぱ同じ感じがするような。不条理な低いずーんとした感じの歌詞、またそういった曲がとてもいい。ま、音は全然ちがうけど。イエスとキングクリムゾンは69年にデビューだから少しずれるのかなあ。
しかしまあ、とりあえずクリムゾンキング、どつぼだなあ私ということ。むしろ慣れ親しんできた音楽のように聞こえる…。もちろんどこにもない唯一のものと思うけど。今にひじょーに繋がってる音楽だなあと。ふしぎだ。でも、アルタードステイツがやるの、すごくわかる、想像するとこによると、そりゃもうすごいだろう。
そしてアルタード結成20周年だそう。私が4歳のときからやってるんだと思うと、ひれふしたくすごいと思う。大学のK先生やO先生が常に作品を続けること、発表することを続けているのを見てても思ったけど、何かをずっとやり続けるというのは、ほんとうにすごい思う。私はあきっぽく意志も弱くすぐ頓挫するから、続けることにひめる意志や向き合い方や態度すべてに想像するとおそろしいくらいと思う。そうゆう人たちには、生きることそのものだなーというのを感じる。私もそんな強靭さをもちそなえたい、とは思うのに。