携帯より

シロップのMDを探して、たくさんMDが入った籠のなかを探していてあれどこいったかなと思いながら探していて、ふと、そのシロップのMDがみつからないから学校行きたくないと意地を張った朝のことを思い出した。この同じ部屋だったなぁ、その時の自分でもあほらしいこと言ってるわぁというばからしさと必死でみつけた正当な理由を主張する真剣さとがいりまじりながらこの部屋に立っていたことを思い出した。

はて考えてみるとそれは15歳のときのことだから、15歳の5月のことだから、もうとうに9年前のできごとだ。あらいやだ、ついこないだのことのようによく覚えてる。それでその日結局学校に行ったかどうかはまったく覚えていない。ただそのとき泣きながら起こりながらMDがないから学校に行きたくないと母に言ったこと、そのときのたちあがったゆげがみえるような感情は目に見えるように覚えてる。紺のハイソックスをはいた自分の足、部屋の床、壁。

嘘じゃなかった。自転車をこぐ道のりにシロップがなくてはいけなかった。なくちゃあだめで、それがないなんて私は許せなかった。今も昔も許せないことが多く、苛立ち、怒りでそれに立ち向かってしまう。MDがないことは一大事で、生きるか死ぬかみたいなもんだった。小さな16歳にとってそれは命綱みたいなもんだった。それがなければ世界がガラガラと崩れてしまうのだと、そうゆうことだったと思う。

ちょうど数日前、シロップ聞いてもうすぐ10年だわーと思っていた。シロップが私に教えてくれたことは大きい。この世界に生きることの最初を見せて学ばせてくれた。シロップから色んなことを考えるよう迫られた。それがより大きな世界に広がり繋がった。シロップを好きになったことが私の、まるでわたしのすべてのよう。若干意味は分からないけど、あまりうまく言葉はあてはまらない。


私はやはり悪人なのか。私は悪人なのか。という問い掛けが私の中で生まれる。穴の中からひょいと顔をだすようにして、問いかける。突然ぽっと顔を出す。泣いてはいけないと思う。泣くなんて許されていないと思う。私は悪人ではないと私は否定することができない。そのことが自分でおそろしく、否定はできないことを知っておきながら問い掛けをする自分の汚さがきらいだ。自分を正当化しようとする自分が嫌いだ。でもそれは私の姿。自分のいやらしいずるさにうんざりして、嫌になって、世界が恨めしくなる。なぜ生きているのだろうと思う。

これはきっと外にむけて開いていた窓がいくつもバタバタと閉じはじめている兆候に思う。なにも見えなくなってしまう。なにも見なくなってしまう。だめだ、と私がさけぶ。ねむい。