液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


ベトナム旅行に行く前日、たぶんよい意味で自分の生き方に開きなおれていたからこそ、死ぬことに対しても前みたいな重さみたいなものがうすくなったようで、だから死ぬことにいろいろなことを考えなかったように思う。すごくシンプルになっていた気がする。死んでしまったら、自分が死んだあとの世界の想像とかもなかったし、誰かが悲しむかとかこの部屋に残るたくさんのものとか死体になったときの自分の様とか、そうゆう色んな想像は一切なくて、むしろ死への抵抗感はうすくて、常に潜在的にあるのであろうこのまま生きていても私はどうしようもないのだろう、変われないのだろうというものが前面にでてきてそれがはっきりと誰かに肯定されて、ほらねやっぱりそうなんだという具合にするすると死ぬことに付属しようとしてくるいろんな抵抗力がしぜんと全部はがれていくようだった。
単純にあまり何かを考える余地がなかったんだと思う。それくらい頭のなかがすっきり整理されているようだった。白い壁紙に、ベッドとタンスと間接照明のライトしかない部屋みたいに。いくつもの歯止めがなかった。後から考えればそれはなかなかおそろしい気もする。死ぬことそのものがシンプルに写っていた。まっすぐな道だった。
首がしまるのはやっぱ苦しいなあ頭に酸素がまわらなくなるなぁと思うとさらにきつくしようとはできない私。ああでもこのままなんとなく続けてればそのうちどうにかなるのかなぁどうかなあとふらふら眠たくなったのか意識が薄くなったのかはよくわからない。それでは死なないのはわかっていたはずで、結局死ぬ力はなかったのだよなあ。
見捨てられたくなく。反対の動きをすることでしか気持ちを表せない私はいつまでも幼児でだからほんとうは親と近くにはいないほうがいいのだろうに。いつまでもいつまでも甘えている。私にも見えない何かをスポットライトで照らすみたいにはっきりと見つけてほしいと。見てくれと。でもそれはいつまでも叶わない。そんなことを他者に要求するのがまちがっているのに。
私のおそれるものはなんだ。なんでもできるんじゃないかという気になって、でもやっぱりそんなことはなくて、それはなんでもできるようになるよう正すべきなのか、それともはっきりそこを認識して、規定して、できないことはもうしないように関わらないようにするべきなのか、どちらかわからない。でも今のところ無理をしても結局できない。迷惑をかけるだけになる。はたしてそれを克服できると?
ふつうの人なら大丈夫であろうことが私にはおおきな闇みたいにしておおわれてくる。おそれるなおそれるなと言い聞かす。下を見ない。正面を、光をみようと。それでも足下は本当はふるえている。沼がじつは見えている。それでもそれはしょうがない、その内なおる、平気になる、なんだって大丈夫なんだと唱える。でもやっぱりそんなふうに唱えてる時点でだめなんだろうか。それだけおびえていることになってしまう。
私は何をおそれている?ルール、規律、しなければならない、いけない、こうあらねばならない、そういったものなのだと思う。厳しさ、ということなのかもしれない。でもそれらはどこにも必要なことで、どこにもあって、そのなかでやっていけないわけではないと思う。ただはじめからそれを言葉で提示され要求されていくと、私の中でびくんと波打つものがある。それがあっという間に促進されていく。うしろの方から背骨の方からなにか液がでてくるみたいに広がっていって全身がしびれるみたいにして思考停止になる。何かいやなことがあったわけではない。自分のおびえに耐えきれなくなったのだと思う。そうなるとただただ不安や恐怖感に包まれて頭がおかしくなる。すべてとじられる。
本当なら克服すべきなのだと思う。できればいいと思う。私はしたい。ずっとそう願って、できなくて、願い、できず。社会は推奨する。でも私にはそれはあわないのかもしれない。今それが簡単になおせるとは、思えない。そんな発言自体が弱さであり甘えかもしれない。汚い人間かもしれない。それでも今はまだできないことはできないとして、できるものを探してどうにかするしかないように思う。ふつうの人ができること、かつてはできていたことができないというのは自分がとてもみじめで小さく、はじき出されたような痛さはあるけれど、どうにもこうにもそれが私の生き方になってしまうのだろう。
変えようとする私の意志が弱いのだろうか。それが悪いのだろうか。私はどう生きれるのだろうか。そんなことをずっとずっと先延ばしにしてきたのは悪いのだと思う。もうそれはできない。生きるのならばどうにかしなくちゃいけないし、死へ逃げてはいけないのだろう。



大阪に行ったときに友達の彼女が自殺したことを聞いた。またか、と思った。友達のまわりの人が自殺する、その数がふえていく。私ふくめ。若い人が多い。それはやっぱり自殺者年間三万人がうそじゃないことを実感するし、なんでそんなことになってしまうんだろうと思う。なんでみんな死ななくちゃならないんだろう。彼女の女の子は後ろ姿を一瞬だけ見たことがある。国立大をでて、公務員をしていると聞いていた。彼氏の方が根がいい人だから彼女もきっといい人なんだろうと勝手に思った。なぜかは知らない、わからない。でも、死ぬ人はなにか一線を越えてしまえるんだろうと想像に思う。けれど、なぜ越えてしまうのか、なにかそこにひっかかるひだのようなものは存在しえなかったのか、死ぬそのときに誰のことも思えなかったのか、死を選ぶそのときその人はなにを見て何を思っていたのか、それはどんな風景だったのか。えりちゃんが死んでからくりかえし思うことだけど、でもこんなの全部愚問かな。本人にとってそこはなにか特別な風景ではなかったのかもしれない。ただありきたりの毎日の風景で、だからいやになったのかもしれない。風景なんてなかったかもしれない。他者なんてとるにたらないものだったのかもしれない。それでもその死の瞬間を知りたくなってしまう。