液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

先月29日の土曜日に、もっかい浮標を見に行った。正直、公演2日目の21日に見に行っててよかったーという気持ち。じゃないと2回目は行かなかったかもだもん。当初は28日に行こうとしてたから、ああほんとよかったあ。

21日は見終えて、いやすべて見終えるまえから、休憩のときからすでにこころが放心するような、わあわあわあ………と言葉を失ってしまいただただわあわあわあという具合になった。帰り道にパンフレットを読みながらすこしずつこの作品で語られる言葉を獲得していった。家に帰ってもまだ興奮がさめず、しかしまだなんだかはわからない興奮だった。

その次の朝からは、まったく浮標のとりこになったみたいだった。昨日見た浮標のいろんなシーンが頭のなかのあちこちに浮かんではきえた。うわっうわっとどんどんそのなかにかえっていくような気分。囲まれるような包まれてしまうような。

そして徐々に自分のなかから言葉になってでてくるのがわかった。なんだかそれはほっとすることのよう。いっぺんに大量のセリフ、言葉をうけてなにがなんだか状態になっていたのがすこしずつ自分の解釈ができるよいになった。その過程はゆるやかで自然で当然のことのようだった。なにかのふところへ、音もたてずにするするとしみいっていくみたいな。

それでここに書けた。がしかし同時に書けないものがうしろに大きな陰のようにそびえてもいた。言葉以前の問題でもあるような、どうにも私の解釈にいたれていないとりこぼしているものものがあるのは明白にわかった。だからなんだかあわあわした。がくがくした。まだ舞台はつづいている。11日間休みなく続いている。まだ見れる。見れるチャンスがある。今ここに。それを思うと心臓がぶるぶるしてるんじゃないかというような緊張感がわきおこった。もう一度見れる、聞けるこの機会を逃してはならないと命じられるような気になった。逃したら、なにがのこる?

しばし迷い、金曜の飲み会を断ってそのお金を浮標にまわすことにした。ほんとは一度見たんだからそれでいいんだそれでよしとしておこうと思ったのだけど、そう決めたあとでやっぱりだめだー!と抵抗勢力がうまれた。そこは従わねば。

私がこんなに見に行く前までの過程をたらたら書くのはこれらが重要とは言葉がいいすぎだけど、非日常的なこころの動作として重きをおいて見ているからなんだろなあ。

21日は1階M列で見たのだけど、お金もないしで今回は一番安い3階席の最前列へ。とりあえず一度役者さんたちの顔は見れているし、セリフを聞くことを考えればまあいいかなと。結果、3階はずいぶん高い位置から舞台を見下ろすかんじになり、声が空間全体に響き、1階よりも声が聞き取りやすいようなかんじであった。こんなに違うんだなあとびっくり。

2回目というだけで、話の流れがわかっているから前よりおちついて見聞きできもするし、それでいて次はあのシーンだと思うとドキドキが高まったりもした。まずはじめに全員が出てきて長塚圭史が挨拶。そして田中哲司演じる五朗が一人、砂の中から万葉集を見つけだす、それを舞台左右の椅子に座った他の役者たちが見ている。ここにある味わいはなんだろう。五朗はこのとき何を感じ、何を見いだすのだろう。わからないけれど、人の行動というものに純粋に焦点が当てられてそれをみんなで共有するかんじがとてもいい。

1回目では気づけていなかったというか、おいつけていなかった人物同士の関係性や台詞のうしろにある各人物の心情みたいなものなどに色々自分なりに解釈ができていったのが今回の収穫。それが見ていて自分なりにたのしいことだった。

五朗が友人であり金を借りている赤井と砂浜で対峙したときに突然地団駄ふんで、むしろとびはねるみたいにして怒りをあらわにするところがすきだ。怒りだけじゃない、いろんな思いがつまってる。自分の気持ちと現実とのはざまで、生に対する不安やおそれが大きな陰となり、それでも美緒に対しての思いすべてで現実をやりぬこうとしている。あの突然ヒステリックなようになるのはまるで自分見るようでなかなか苦いきもちもするけれど、だからこそ五朗に愛着がわいてしまうかな。

医師の比企先生と浜辺で対峙するときもおなじだ。しかしこの時は更にせっぱつまっている。比企先生の言うことはまっとうだ。しかし五朗はそんなまっとうさが許せないんじゃなかろうか。もっともっとと五朗は要求する。自分だけが必死になっていて、なぜ医療はもっと最前を尽くさ(せ)ないのかと批判しているよう。

比企先生の台詞で特に印象的なのが君はここ(家のなかでなく、浜辺)にくるといつも気がおかしくなるようだということと、人は誰しも必ず死ぬということを忘れていやしないかと五朗に問いかける二つ。両方ともきっと的を得ている。確かに五朗は美緒の前、家では冷静でいられるが、客人がきて美緒の前ではできない話を浜辺でしていると美緒の病気だけでなく生活全体への不安や本音、すべてをぶちまけてしまう。見ているこちら側も思わず比企先生の発言にはどきっとしてしまう。たしかに…!と。

そして人は誰しも死ぬんだということ。そんな普段ならわかっている言葉にもはっとしてしまうほど、五郎のなにがなんでも美緒を生かしたいんだという勢いにおされて見てしまっていたことに気づかされる。五郎はこの発言になにを受け止めたかはわからない。しかし私はこれはかなりのショックとして五郎につきささるんじゃないかと思った。なにより私がそう思ったから。どうしたら生かせるか、いかに生かせられるかばかり考えていた人間にとって、当然としての死をつきつけられる。これまでの混乱が収束されるよう。

そして同時にこの言葉によって五郎ふっきれたんじゃなかろうかと思った。比企先生が去り、一人残された五郎の背中はとてつもなく重く見えた。田中哲司の背中がなんだかこわい。こちらにうなだれた背をむけ、うめくように叫ぶ。あてつける相手もなく、はきだす言葉もない、世の中すべてにたいしての憎しみやうらみのようなものに感じた。そうしてすべてを吐き出してのみこむ作業をしたのではないか。だから次のシーンからの五郎はちがう。見ていて、ああそうか、生への疑いをすてられたんだと思った。ここが2回目においての一番の発見だった。

五郎は美緒をいかに生かせられるのか、不安と恐怖でいっぱいだったと思う。死をおそれていた。しかし人はみな平等に死ぬのだということにぶちあたったからこそ、生を賛歌できるようになったのだと思う。生きていることのすばらしさをしっかりと捕まえられた。だから、絵も描き始められたのではないか。絵について語り、ただただそれだけという万葉の人々のうたを賛歌する五郎はもうなんだかキラキラ輝いている。生きている今を、今をと全身が言っている。そんな五郎の姿がうれしくてたまらなくなる。

そうかそうなんだと1回目より断然自分のなかでつかめたものが大きくなって、五郎にどんどん感情移入してしまいなんだか思いがこみあげた。だってそうして美緒は死に向かっていってしまうのだから。万葉集をよむ五郎の声が切ない。最後まで最後まで万葉のうたを声をしぼりあげて美緒に聞かす。叫ぶ田中哲司が苦しくかなしい。


最後に役者さんたちが挨拶にでてきておじぎするとき、田中哲司が上の階それぞれに目を向けてくれていたのが単純にうれしかったー。
二回見て、一回目じゃたりなかったところが満足できた。ふわあーっと脳味噌がまあるくふくらんでいくような、シフォンケーキみたいに膨らんだふわふわなものが充満しているみたいだった。

今あるこの生を肯定していくこと、ラストに描かれるこの作品の言葉を自分なりにつぶさに追ってその意味を捉えることができた。そのとき、この作品はこんなにも素直に率直にストレートに生きていることを喜びとして表現することができているんだと思った。そこに行き着く前に描かれる色んな人間のありようもリアルで、善悪ではわりきれないいくつもの人間があって、そういった人間たちとの対峙を通じて行き着いた五郎の姿、それを見守りつづけた美緒の姿。強烈なひっぱるようなみちびくような一本の力が最後まで繋がっているんだなあってわかることができた。なんてすごいんだろうな。長塚圭史がこの作品に強烈にひかれたのもわかるな、なんて。

時代背景的に坂口安吾と通じるものがあるよなあと思ってて、そしたら一応二人とも無頼派に分類されたりもするらしい。それにロビーにあった三好十郎の紹介ボードを見たら、やっぱり戦争を生き戦後を生きねばならなかった人なんだということもわかった。やっぱり、その時代を生きた人たちの戦後を生きていくときの覚悟、生の覚悟みたいなものは強烈だと思った。花森安治もそうだ。そうか、私はここに惹かれているんだと思った。

16のときはじめて安吾を読んだ。真理が書かれていると感じた。世の中の、自分の、わかっているのに隠しているような矛盾やらをすべて千枚通しでぶっさして見通したみたいに貫かれた言葉みたいに入ってきた。これだ!みたいな感覚。
加えて達観したような、極端な世界しかもたないような、混沌にまきこまれていないなような確実な視線に惹かれたと思う。私もそんなようになりたいくらいに。それはたぶん現在という今ではえられない生死への迫力があったからなんじゃないかと思った。

同じように、暮らしの手帳初代編集長の花森安治の本を大学生のときに読んでショック感を味わった。戦争の時に自分がしたこと、そして敗戦をむかえ、暮らしの手帳を作るにいたった戦後の生き方にはやはり凄みがある。私はこんな人がいたんだと驚いたし、そんなにも戦争というのは大きな大きなものなんだと思った。やっぱりそこには生きることへの覚悟があるのだ。

これまで安吾と花森をくっつけて考えたことはなかったけど、三好十郎が現れることでなーんだ繋がった。なんだ、わかりやすいことだったのか。私は高校やめたころからよりネガティブになって生きてることが薄くなったり死への願望が強まるばかりでいた。だから、だからリアルな現実ではふれる機会もないような生への強い意志がある、覚悟がある人間の言葉に惹かれるのだ。

そうかそうか。私にはないから、その覚悟にこころがふるえてしまうんだな。