液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

先月のはじめくらいだっただろか、帰りのバスの中でふと思い立ってスマホからyoutube初恋の嵐のuntitledを聞こうと思ったのは。なんかそっからかなりリピートしまくっている。たまらないたまらない。たまらなく愛おしいような気分になる歌をうたってくれる。

西山さんの歌ううたは、人間のこころもようをころっとしたまあるいふくらみのある滴みたいにかろやかにすくいとっている感じがする。ころころと丘の上をころがるみたいなくすぐり感のある歌詞だと思う。ものの見方が、つきはなすようでいてとてつもなくあまい。

悲しみをコインに変えて生きてゆく

という歌詞がたまらなく好きだ。ただただこの言い方が好きだ。歌詞とはそうゆうものだ。昔から、好きなフレーズとは一曲の中でなぜかそこだけきらっきらに輝いて見えるのだ。



イライラする自分がかなしい。気持ちがぐっと原腹をなぐられてそのまま腹がブラックホールになってそんなかに落ち込んでいってしまうような。
昔ほどの死への思いは明らかにうすくなった。むしろ最近はあまりにはなれたせいか、こないだ夜中にトイレに起きて、その寝る前から最近死について考えてないなみたいなことを考えていたのを忘れてなくて改めて考えてみようとしはじめて、そしたらなんだかこわくなった。死を考えることに恐怖感を抱いた。それは死そのものへのというよりは、死を考えると陥ってきた過去の状況をおそれた感じではあった。またあの過去に戻ることはこわいことだ。それはまた入ってしまったら簡単には出てはならないものであると思わされる。しかしそんなふうに死について考えることをおそれる自分に私は驚いたし納得もした。私はこれまで日本人は死をタブー死して直視してきていないとか、死について考えるのはこわいといった意見に対して私はまったくそんなことないけどなと明らかにやや強がり的な思いをもってきていた。だって事実自分の死についてはひたすら考えまくってるもん、みたいな自負はあった。とことん考え詰まってどうせ自分じゃ死ねないから生きにゃならんのだと至った。でもそしたらいつのまにか死を思うことが非日常になってこわいと思うようになってしまったのだ。

でも、なんか、しにたいしにたいって毎日思わなくなったら、いつ死んだっていいや、いつ死んだって同じだし、特に生きてることにしがみつく意味も何もなくて、むしろ昔よりだいぶしがらみが減って死のうとすることができるんじゃないだろうかと思ったりする。昔は死にたいと思えば思うほど生きていることが何倍にもなって覆いかぶさってきて死が遠ざかるばかりのような、要は生きることへの強いまなざしであると一応自覚もあったりして、いくら自分はクソだくそだくそだと叫んでもそれ以上にも以下にもならなかったわけだ。
けれどそんな極端なきもちからはなれたら、いったい何をそんなに熱くなっていたのか、死にたいならいつだって死ねばいいし、いつだって死ねるんじゃないかという気持ちになっていた。後悔もなにもない。希望も何もない。べつに今が不満なわけでもいやなわけでもないし、見たい聞きたいものだって沢山あるけれど、べつに今死んだってかまわない。生きてる意味はべつになんにもない。この先もなにもないのだろう。わかる。だって今までもそうだったし、他に何も見えないのだから。無意味に生きているだけなんだなあとしみじみ思う。体があるので生きている。でもやっぱり、さっさと死んだほうがいいんじゃないかなあとぼんやり思ったりもすり。
そういってまた今日も生きているわけだけど。