液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

朝の通勤快速の窓からの景色がみょうにいい感じに見えることがある。ばーっと流し見れるからこそよいのだろか。各駅でとまりとまりだとまた違うような。湘南新宿ラインの景色だとなにも思わない。季節的には今、十月くらいの朝の光がすごくいいなと思う。暑すぎず寒すぎずの気温、空気のなかでまわる光はころころとしたかわいらしさがある。ぼやっとしてて、やわらかなんだなあ。


一昨日は筋肉痛がひどすぎてなんだかだるだる。一日個人作業な授業だったため、のろのろ。しかし仕上げねば、しかしいまいち溌剌としたやる気もアイデアもつかめず。パソコン室でだらーっ。いかんいかんとなんとか最後に少し復活。

そして残らず急いで美容院へ。のばしつつすいてもらって整える。なんか昔はのばすのができなくて、なんでできないかといえば自分の太くてかたくて量の多い髪の毛がだいきらいで、いつももわもわしてて、それにむかむかいらいらしていて嫌になって自分で切ったり中途半端な肩らへんの長さに我慢できなくなったり、そんな理由でなかなかなかなかロングヘアにはなれていない。のばしてみたいけど神経的にむりなのであった。

しかしそれが年をとってきたらなあ、髪の毛なんてあんまり気にならなくなってきた。思えば昔はなんだか神経質に完璧でなければ許せない気があった。だからたいがい完璧からはほど遠い自分の髪の毛がいやでいやでしかたなかった。嫌になったときにさっさと美容院に行ってこざっぱりとすればいいものを、美容院もいやでいやでしょうがないから行けない。美容院の首までおおわれる布、の上にでる自分の顔や頭の具合の醜さみたいな醜悪さみたいなものをでかでかとした鏡で直視せにゃならんのがいやでいやでしょうがなかった。今でもそれはきらいだけど、今はすっかりメガネだから、美容院行けばすぐメガネは外されるから自分なんてもう全然見えないもんね。目悪くてよかったよかったと心底ほっとするのが毎度のこと。

考えてみると若いときと言うのはかように自意識過剰みたいなことになっているんだなあ。今、訓練校で10代の子たちに同じ姿が見えるから、そうかそうか若いとはそうゆうものなんだなあとわかる。大変だな、若いというのも。いっぱいの自意識ばかりに責め立てられ追い立てられ。それが若さといえど、私はなかなかつらかった気がする。なんて今だから思える。

年をとると自分の顔のぶさいくさ加減や頭のでかい具合や色んなバランスの悪さなどにはあきらめ的な心構えができるようになってきた。ま、そんなん気にしてもしょうがないし、どうでもいいか、てかどうでもいい以外になにものでもないみたいな、それがどうしたと言わんばかりな、悩むのもめんどくさいし時間の無駄だしみたいな合理性が主導権をにぎるみたいな流れになっている気がする。年をとるとはこうゆうことか、とたいへんしみじみしく思う。今なら確実にわかる。

そんなわけで髪の毛くらい伸ばすのも切るのも自由だし、すきなように自由にどうにでもなるんだろう的な余裕の気持ちになれるようになっている。だから、まあ特に気分変更がなければしばらくは伸ばしてみる方向で。今の髪型は私的に気に入ったのでうれしい。


先週モーサム見た後、ひたすらスマホからYouTubeモーサム映像を見まくった。十年前にはこんなものなかったよなぁとか思いながら。
そして昔のCDも聴いてみたり。やっぱりさ、すごいなとあっけにとられるように思うところは、今がかっこよくてそれでいてやっぱり昔もかっこよいんだというところだ。それぞれがそれぞれにかっこよい。昔の曲がけっして古かったり今と全然違うとかゆうことはなくて、過去があって、その都度てっぺん突き刺すような衝撃性をもってやってきて、そのうえに今の音があるんだという生き生きとした、血の流れみたいどくどくとしたものが生々しくわかるんだなあ。そこがほんとすごいなーと思う。