液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


相変わらずごちゃっとした毎日のお弁当。

昨日の夜、晩ごはんを作っているときに弁当用にとほうれん草をゆでた。ほうれん草を沸いた鍋の中にいれて、ゆでたら水にあてて水気をしぼる。いつもやること。

その後お風呂に入り、お風呂をでるときに髪の毛をひとつにまとめて水をしぼると、うわっ、ほうれん草といっしょだっ、とびっくりした。太さといい長さといい水の入り具合といい、髪の毛がほうれん草をしぼるときの手触りとまるでそっくりだった。髪の毛は当然ながら後ろでしぼる、つまり私自身目には見えない。だからこそ手触りだけでよりほうれん草と直結できたのか。びっくりした。



すっかりたなかてつしかモーサムかの話ばかりな気はしつつ。今日は母が夜ご飯を作ってくれたので、その間部屋ではたまた週刊真木よう子を見た。何回みるのか。ってくらいこれはいい。田中てつしの良さがみっしり詰まっている。台詞覚えそうだ。

そして22時からのドラマを見た。役柄はわかっていたが、ひい、こわい。まあほんと、俳優さんてすごいなあああと思うばかり。あんなに色々な役柄をこつこつと続けていくのはすごいなあと思うのと、演劇がすきなんだろうなあと思ったりする。
しかし我ながら過去出演作品のタイトルを見て、え、あれのどこに出てたんだろかと思うものがいくつもあったりする。見たときはきっと認識してるはずで、その積み重ねですきになっていってるはずなんだけど、出演作品が多すぎで軽く流していっちゃうからかななかなか細かには覚えていないらしい。とりあえず顔のおでこ具合がすきというのが一番だからなぁ…。おでこのしっかりでてる人が私はイイ!と思うらしい。


そしてモーサムは土曜にブックオフに行ったらわりとあった。シロップなんて一枚もなかったのに。しかし謎なのが最近のよりhelloやLight〓の方が値段が高かったこと。わからん。そのあとツタヤで二枚かりた。中途半端な品ぞろえだった。
ひとまずその二枚、c.o.wとstrrugleを聴いているとふしぎ?みょう?な感じを覚えたりする。単純にいえば、曲の感じが昔のどれかしらに似てるなと思ったり、それはバンドの正確として曲のつくりが似るというか同じみたいなことと思うんだけど、それがなんでかなぜか不思議心地なんだなあ。そうゆうこと感じながら聴くってことはこれまでにないからかな。特殊な関係だな。でも感じることは昔と変わってなくてすきポイントは昔思ってたこととなんだ一緒だ。イサムさんのドラムのこうゆう入り方すきなんだよなあとか、こうゆう音の叩き方のときのドラムうつ体勢がいいんだよなあとか、音からライブのときの臨場感が見えてくるのとか、そうゆうのもはじめて聴く、しかし過去作品でありという状況においてこうなることが私にはなんだか不思議なのだと思う。
こうゆうのを形容するのに不思議という以外の言葉はなにかないだろか?いつも他にうかばなくてたいがいを不思議としてしまうけど、七割くらいしかあてはまってないかんじがいつもしている。十割の意味では使っていなくて、他では得ていない感覚の心地のことを不思議としている。なにか他にあるんじゃないのかとはいつも思っているのだが、だか、ない。

LIGHT,SLIDE,DUMMYなんか聴いてるとすごいライブのこと思い出せるんだなあ。リキッド2daysの印象が強いのかな。この曲の時はこんなかんじで、とかイメージがわくわく。ああ私そんだけ見ていたんだなあと思い知る。ボレロのときは白鳥の羽がむしられるような、バサっと羽開くような、つま先立ちするような、とかとかとかとか昔見てたイメージが笑えるほどにわきおこる。いやそれは今新しく見ているものなのか。

ちょうどモーサム見に行く前からシロップのHELL-SEEを聴いていて今も継続していて、ふと今日の帰りのバスのなかで思ったこととして、モーサムはアルバム毎に常にバンドとしての新しい挑戦や実験があるバンドだけれど、シロップはそうゆうのを少なくとも全然感じられないということ。シロップは五十嵐さんが曲をつくり、それをだす、というただその流れしか見えない。しかしモーサムは何かやってのけていくという闘争みたいなものを無意識ながらも私は受け取れていたような気がする。昔はもう確実に今より全然アルバムにこめていくつくり手の思いとかへの想像ができていなかったはずで、今だからようやく少しはつくり手たちの言っていることが理解や想像を及ばせられるわけで、そうして過去を思ってみると新鮮に気づけることが結構あるものだ。


十年というものがようやっとはじめてなまなましく温度や手触りを感じられるものとして、手にずっしりと手応えのあるものとしてわかるように、いつのまにかわかるようになっていたというこの現在は私にとってなによりもかけがえのない自分の中に根付き生まれ出たリアルと思う。それは私にしか感じられないもの。私が感じると言えば感じるもの。
十年前にはわからなかったものが、今ならわかっている。わかるなんて瞬間はなかった。気づいたらもうわかっていた。すでに私のなかにあった。私はすでにそれを知っていた。そんなふうにやってきた気がする。また十年たてばそれは違った感触として現れるかもしれない。だから今あるのは今だけのリアルだろうとも思う。それでいい。今のこのリアル。そんなものが見えるようになるなんてな。思いもしなかった。あるんだ、十年という歳月は本当にあるんだ。そんなことを繰り返しじんじんと思う。
それはもしかしたら16のときに何もなければ思えないことだったのかもしれない。16歳というのは否応なく切り離せない重要なものであることはきっと確かなのだ。