液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

年をとってくると、少なくとも十代のころとは、ほにゃらほにゃら。



昔から胃がよわいのかなんなのか、時々意味不明に痛くなる。今日もなっている。大体一晩寝ればなおるが。はらがいたい。

久しぶりにシロップのなにかしらのCDを聴いてみるたび思っている気がするのだが、久しぶりと思って聴いているのに気づくと平気で一緒に口ずさんでいる。いつどうやって覚えたんだろうか、と思う。ほとんど全部の曲、うたえるんだ。我ながら、ふしぎ。よくもまあ覚えてるなあ、歌えるなあ。

歌詞カードはほぼ開かないから、聴いて覚えたのだろうが、それにしても、と我ながら思うのだ。われながら、そう、自分のことだが、自分の口が勝手に、まるで自動に動いているのだが、そこに私の意志や記憶は介在しているのかはさっぱり疑問だということ。

特に覚えた記憶なんてないし覚えようとした記憶もないわけだ。私は意志していないはずだ。歌詞を覚えることに関しては。しかし聴いた。聴くことを欲望したからその結果といえるのだろうか?わからない、たとえ明晰なつじつまのあう仕組みの理由があろうとも、私にはわからない。わからない事柄としてしか存在しえない。

自分でもはたしてこのあとの曲も歌えるのか?と謎に思いながら聴き続けてみる。これがなかなか歌えている。たぶんCDと一緒にだから可能だとは思うけど、一年聴いてないようなメロディのいくつもを追いかけるみたいにして唇が自動的にうごく。頭で考える作業などまるでないようで、すらすらと歌詞がでる。私の中からでている感じがしない。向こうにあるラジカセから流れてくるメロディが直接私の唇を動かすようなかんじだ。メロディが覚えているのだろう。音につられて動けるような気はする。音がなければ無理だと思う。歌詞そのものとしては覚えていないから。

私はこの現象をふしぎに思う。自分の今の意志、意識ではないところが勝手に働いている感じがするから。私がしようとは思っていないことが起きる。覚えているということは、よくわからない。昔にだって私に覚えようとする意志はなかったはずだ。覚えてしまっただけだ。そのことが、なんだかいやしいみたいに感じているのかもしれない。悪い意味ではない。けれど、なんだか、なんなんだろうという感じ。歌詞なんて、なんで覚えているんだろう。


最近シロップの歌詞について考えていたから、coup d′etatなんて久しぶりに聴いてみたら妙な疑問にはまってしまった。がーん。
考えているのは私はシロップの歌詞になにを見ていたかということ。過去形であり現在形であり未来形にもなる最大の疑問事項だ。いつまでたっても解けそうで解けない難問である。わかることはできないんじゃないかとも思う。でもわかりそう。でもやっぱり違うかも。てか答えなんてだせないかも。みたいなところ。私は知りたいのだ。私にとってシロップのうたは何であるのか。私に何が作用しているのかちゃんと納得したくてしょうがないというのど、どうやったってそんなの無理、無意味、そんなのあったってなくたって同じで変わらず私はただ好きなんだろうというのと両方はある。そうやって永遠に課題なのかもしれない。

時間がたってしまうと、時間がたてばわかることとか、時間がたたないとわからないこととか、そんなんもすごくわかるしすごく正解っぽいしとても正しい発言ぽいけどそれは、それはなんかやっぱり、はたしてどこまでそれが真実といえようか?その時はその時にしかなく、その時が絶対じゃないのか?あとから振り返り見ることはその時に対してゆさぶりをかけられはしない。それは振り返り見たときがスタートになる。過去はしまわれる。そんな、振り返り見たときがすべてにされて、それが真実といわんばかりに。片づけてしまうのだ。それは、正しいのだろうか?

そんな疑問にぶつかってしまうってどうゆうことなわたし。十年もたってしまうと、正直わからないのだ。十年前の自分に対してこうだったろうと思える気持ちもあれば、どうじに本当にそうだったろうかと疑る自分も出てきた。十年前の自分のこころを知っている気がする。なんせ同じものを私は自分の体のなかにもっているはずだから。私はそれを所有し管理している気がする。私はそれを胸のあたりもっている感じがする。十年前に感じたものを記憶していてそれを再生できる感じがする。感じがある。血があり肉のある暖かみや弾力のあるものとして。

けれどもはやそれはそれでしかないのではないか?それを、外皮をやぶって中身をぶちまけようなんて、どこかに配置しようなんて今更ほんとうにできるか?それは正しい行いになるか?手出しをできるのか。そうゆう問い。そうゆう疑問がわきあがってきてしまった。したとして、それはどこまで私を説得できるものか。ある程度はまあやっていい気がする。大まかなことはそんなに間違わない気がする。発見事項として片づけられる気がする。

けれど十年前と今とに対して同じ問いがあって、その答えが今導き出したもので同じ一つのこたえと言えるだろうか?言ってしまっていいの?という私に対する私からの問い。十年前の私への。不安なのだ。答えを出してしまうことへの不安か、同じといいきれるのかどうかの不安か、十年前の自分が何を思っていたかなんてまるでわからないような気がする不安か。

同じでいいような気もするのだ。同じな気もする。私は言ってほしかったのだ。誰かに言ってほしかった言葉を五十嵐さんが歌ってくれていた。そうゆうことなんじゃないかと。すっごーく単純すぎてあほすぎて、なんでそんなことに十年も気づけなかったのかと嘘かと思うくらい。でもこれは十代の私では認められなかったことだと思う。私はそんな単純さを否定したかった。ちがうちがうそんなことじゃなくて、私がシロップを好きなのはもっともっと高貴で数奇なものがあるのだと必死に思いたく思っていた気がする。シロップはあまりに特別すぎたから。でもそれを明確な言葉にはできなかった。何が、とは言えなかった。言ってはいけないものかのように。でもどこかでわかってもいたような気がする。五十嵐さんのうたはやさしい、それくらいはわかっていたような。でもそんな単純さに安らぎを覚えるような自分ではいやだった。救われるなんて、そんな軽々しいことは激しくいやだった。私のすきな理由はもっと崇高なんだからと、誰かに言い放ちたがっていたようなそんなかんじ。誰にって、私にだろう。

素直に認められてたらかわいかったんだろうになあ、出来なかったからなあ絶対。それはまるで弱さとみなした。弱くあるなんてこと、認められなかった。ひたすら強く強くあらねばならない方向に向かうばかりだったような気がするなあ。

でもなあどう考えてもやっぱりシロップのうたに私は救いのようなものや癒しみたいなもの、他の誰もが言ってくれなくて誰かに言ってほしかった言葉(潜在的に)を沢山の歌詞のなかに見いだしていたんじゃないかという推測がたてられる。てか、他にないっちゃないような。

でもこれって結局今の私が思うだけで、十年前もそうだったかなんて、そうだったかもしれない気はするしそれで間違ってない気はするけど、でもほんとにそうかな?そう言えるかな?そんなの結局今の視点からでしかない、今ということに強気になった傲慢さがあるんじゃなかろうかという疑問がわき起こってきた。という話。

なんだかかなりの勢いでどうでもいい話のような気のする気配にぞわわとしつつ。これは解決できることなのかどうか。雲行きがあやしい。