液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


先週のびっくり事項。スペシャに詳しい19歳男子にそうだ聞いてみたいことがあると思い、ミッシェルって聞いてる?ナンバーガールは?などなどと尋ねてみたのだ。そしたら、名前は知ってるけど特に聞いたことはないとな。うはあ、やっぱりそうなのかあ、そうなんだあ、とびっくりというか時代の違い?隔たり?流れ?
モーサムとかも知らないし、逆に彼の言う最近の人たちらしいバンドを私はまったくわからないから、彼が若手の新しめの音楽を選択しているということとは思うんだけど。それにしても同じスペシャを見ている(た)経験が同じでも、やっぱり10年違えば見聞きする音楽も違うんだなぁみたいなことをしみじみ思った。てかまあとにかく単純に私の世代でミッシェル、ナンバガといえばすでにできあがっている、君臨している絶対的な位置みたいなとこにいる人たちであって、それは音楽業界とかいうところや音楽好きな人たちのなかでも共有されていることとしてあって、でもそれはやっぱり今にはないんだよなあという当たり前なことを8個の年の離れた男子を前にして感じられるというのが、そのことが新鮮な体験だった。
今の若い子はミッシェル、ナンバガ聴いてないのかー(もちろん聴いてる人もいる)と思うと、自分の中で実感し掴んでいるのとはまた違ったところからの時の経過を思い知らされる。そんなふうに外側の世界は流れていってるんだなーという。私には関係なく流れている大きな風景を見た気がする。でも改めて私自身はミッシェルとかそんなに興味なかったけどそうゆう人たちがいて、そんな世界がおもしろかったんだよなあと思ったりもして。

鈴がかすかに鳴るみたいな人の寝息。




土曜日に、行こう行こう思ってた棚田康司「たちのぼる。」@練馬区立美術館に行ってきた。ちょうど先週の夕刊でも千葉の須田さんの展示と一緒に現代の木彫みたいな感じで紹介されていた。千葉は、ちと遠いよなあ。

たまたまHPだかを見て、なんかすごくよさそうと惹かれるものがあり、彩色された人間などの木彫というのはそいえば船越桂くらいしか見たことないな、彫刻ってなかなか知らないものだ、でもなんかとってもよさそうだとピピンときた。
しかし練馬区立美術館というのは前から時々行ってみたいなと思うことがありながら、地理的にふれたけとのない土地で、それだけでなかなか行かなかった。まあでも調べてみたら池袋から西武池袋線に乗ればいいだけだったし、区立だからかチケット500円だしとすんなり今まであったはずの垣根は越えられた。まあ、なんだってそんなものだ。
駅から歩いてすぐ、久しぶりに新規開拓美術館だったが迷わず着けた。看板ってエライな。入り口入ってすぐが受付でチケット売り、グッズも一緒にみたいなべつに特別なグッズ売場なんてありません、限りあるスペースで十分やってますみたいな質素感が新鮮だ。区立美術館てそもそもはじめてだ。区で美術館やるって、考えてみたら東京都くらいじゃ?やっぱ東京ってすごいな、とか都内生まれ育ちながらも思う。

入ってすぐ、エントランスみたいなとこにまず一作品。でもまだよくわからない気持ちなのでひとまず一つ目の展示室へ。そこからぎゃふん。ひゃっ、いっぱいいる、なんかいろんなかたちでいる、でかいのもなんかいる!と気配は認識しながら一作品ずつ見ていく。
絵画や写真にも視線というものはもちろんあるが、彫刻の視線というのはやはりびんびんだ。作品の真正面に立ち、おもいっきり視線があったときというのは人間と偶然目があったようなんとは全然違う、向こうははじめから、こちらがそこに来る前からそこにいて待ちかまえていてそして目があうというよりその視線に私が射されるかんじ。たちうちできないもんね。うおぉっ、うあっ、うっ、みたいな具合にこちらからも見させていただきますぅ…的なおずおずさから入ることになる。視線があうことになる作品は多くはないが、だからこそあったときにはものすごいエネルギーを感じる。真正面に立ったそのときだけ、彫刻の目は動いたりしないから、いくらか斜めであればあわない見えないものが真正面にいくとたちまち世界が変わる、それがほんとおもしろい。すごいと思う。こんな出会いって世の中にもそうそうないよねと思う。
また木彫のほれぼれ吸い込まれるところは一削り一削りの一本木から掘りだした跡がそのまま見えること。それにじっと見入る。そうやってこれは生まれてきたんだなあとただただ見入る。彩色されライトがあたり、部分によっては本当に人肌みたいな血の通いを思うし、また部分によってはつやつやとした丁寧にならんでいる跡にぼーっとする。
はじめは目が、眼の瞳孔が彩色されているものなのか作り物の眼をいれているのか判断がつかなかった。しかし見ていくと細かに層を重ねてぬられているのがわかった。その色の深さ、複雑さにまた驚いた。そこだけにすでに宇宙があるみたいな眼をしていた。
一階はわりと最近の新しい作品たち。前にたって特にミブルイしたのはたちおかみ。大きく、見上げるかたちになる。身体のあっちで鳥肌ぶわわ、こっちでぶわわ。なんか、キリストやマリア像の前で光をあびてあおぎみる気持ち。
二階へあがる階段の途中にもいたりする。かわいい顔。二階は90年代と2000年代の作品が一緒におかれている。その変化というものがとてもおもしろいなと思う。あまりに大きいように見える変化。たしかドイツに留学してからなのだとか。その変わりぶり、何があったのかを詳細に知ることなんてできないけど、何かが作家の中であって、そしたら生まれてくるものがこんなふうになってくるんだっていうことに触れられるそのことがとても新鮮だった。大きく変化が起きているから、時系列でずらーとゆるやかに変化していくのとかとはまた違ったのかなあ。
最近の作品は少年少女たち。斜めの地に立つ姿が印象的だ。細長い手足。髪型もみんなおもしろくて、またその造形のこまやかで美しく愛らしく、しかしこびているんではなく一人で立ちきっている。すんとのびゆくまなざし。とにかくひとつひとつを見た。こんなときはあまり思考するよな言葉はうかんできたりもせず、自分の感覚の海みたいなところを無心でただようみたいだ。ほんと、言葉がだいぶ消えていたとあとから思った。わあ、はあー、はあーといったような何かしらのリアクション的音声にしぼられた気がする。見て、見つめて、見つめて。やっぱりついつい見ながらいろいろ考えたり疑問に思ったり関係ないこと考え出したりしちゃうのがよくあることだ。なんなんだろこれ、いみわからん、めっちゃいいなーとかとか。そうゆうのは全部消えてただ感嘆の声だけでいるってのは、ないもんだよなあー。なんかそれってすごいなー。わふわふ。

図録の写真がまたすてきである!


さてと次は六本木の森美術館へ行くため、どっかで大江戸線にのりかえる。その乗り換え駅のドトールでお昼。つぎにつづく。