液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


学校を出たら、いつもある方とは全く違う方に月がいた。おへそと背中ほどの違いだ。なんであんな方にあるんだろうと思っていたら、あれは本当に月なのかと疑わしくなった。しかしやはりどうもあれが月らしかった。月を月かと疑うところが我ながらおもしろ楽しかった。



土曜日におばあちゃん家に行った。金曜にさわひらき行った話はひとまずおいておき。おばあちゃんはここ数年であっという間に老いたような気がしてしまうが、それは私がおばあちゃんを見るようになったからなだけで、つまり気づいていなかったからなだけではないかとも思う。しかし明らかに以前より耳は遠くなり腰はより曲がり、簡単にできないことが増えたみたいだった。しかしそれでも筑波山のきれいに見えるところで一人暮らしているのだからそこにはひたすらなにかしらのエネルギーみたいななにかが渦巻いているような気などがしてしまう。

そんなおばあちゃんが膝の手術をした。まだリバビリ中で自立しては歩けない。それでも一軒家でひとり寝起きし生きている。なんていうか驚きはしないが脅威みたいなものを思う。私には到達できていない世がそこにはあるような気配を思う。それで父と母と車で向かった。今までにも何度も来た道。何度も見た景色。しかし数年前からいつかここもなくなるのかもしれないと思い始め、その日が来てその日が過ぎ去っても後悔しないために、何を後悔するのかはわからないが、それからはなんだか何度でもここを写真に撮っておかなくちゃならない気がしてきた。

もともと古さ、雑さ、ごった返し具合がものすごい自然な味わいともいえる素のままをさらけだしているところだったし植物なども季節ごとにおもしろかったのだが、見る目がそこからは変わった気がする。自分の写真を撮る力が変わったとかもあるかもしれないもしくは同時。いつか消えてなくなってしまうかもしれない。そのことに対して今から用意してるみたいな、なんかそこにあるごちゃごちゃなにか、自分でもまだよくわからないなにか。

そんなわけで最近はおばあちゃん家に行って写真を撮るのがたのしくてたまらない。見る度ぜんぶが新鮮だ。子どもの頃からなんも思わずただおばあちゃん家として見ていただけのもの、景色、においが唯一無二の存在として迫り向かってくるみたいに。本当にはなってないんだけど、なんか長距離走ってるときの呼吸、小刻みにくりかえす呼吸のかんじでおばあちゃん家をすごす。

いくらかの畑がある。小さなものだ。まわりは田んぼ。車が行き来する道路は向こうの方に見える。その田んぼ、放置された野菜やイチジクの木や小豆や。そのなかにあちこちに無造作に咲く小さいサイズの菊の花。紫の花。光がよくあっていて、野性的で、一種の美しさがある。その風景は強すぎてうわなにこれという感じがした。うわやばいと、負けるような風景だった。そしてそれは死のにおいがすると思った。なんかな、そんなときは風景が強すぎて退いてしまうきもちになるらしくあまりくいついて写真が撮れないという。まだまだだめだなわたし、とか思う。まあその花が菊だって母に聞いてわかったんだけど。

帰りは18時半くらいになった。すっかり夜。さすが、隣の家も遠いだけあり外が暗いというか闇だ。最近はずっと夕方に帰ることが多かったから、夜の暗さを久々に味わった。そうかここはこんなに暗いんだ。知らなかったわけでもないかもしれないがほぼ知らなかった。そそられる。吠えたい気分だろう。おばあちゃんはこんな真っ暗闇に生きているんだなあと思う。月がすんごくきれいに見えた。大きな空のなかに月が映える。空って広い。視界が空のみでうまる。その中に月。月の光がこちらに落ちてくることを思うとむふふと思う。