富士山とelect boysとmetaluca
と、昨日の朝の電車の中で打ったらしい。月曜の朝がどんより気分すぎてよくないかんじがしたからもさむを聞いていたんだった。そしたら富士山がみごときれいによく見えたので、いきずまっている課題についてももさむ音とあわせてなんとかなるんじゃないか気分になれたんだった。
富士山て、何回見えても見えてもふしぎにびっくりする。うわ、でか、みえるのか、みえちゃうのか、てゆうかほんとにあるんだみたいな驚き感。でかいなあ富士山。連なった山々とかじゃないから形としてもよくわかるし、りりしくて美しくあっぱれ見事なゆるがなぉ姿形に見とれまくる。ずっと眺めててもあきない。富士山なんだなあ。日本なんだなあ。私日本人なんだなあ。


帰りの電車で高校生カップルが乗ってきて、べつになにか特別あるんでもなくふつうふつう、べたーっとしたかんじもなくさらさらした付き合いみたいな、特にこびるかんじはないけどでも女の子のほうは他の人の前とは違うかわいらしさを出しているようなしかしざっくばらんに向き合い話す自然体でいるかんじを見て、ああ、私にはこんなときがあったか?こんなふうに話す異性がいたことがあったか?ととっさに思った私。
いやないなあ、高校生のときにはまったくなかったし高校やめてもなかったし、まったくなかったよなあ。あ、でも大学のときにはいたのか?はたから見れば私も同じようなというか、ざっくばらんに横にならんで話をしている男女であったのか?そうか?まあ自分は自分じゃ見えてないからなあ。sくんとか、ああtさんとも一緒に帰ることは結構あったようなと思い出した。うーんでもどんなふうに一緒にいたかとか全然思え出せない、うわ、ぐはっ、今となっては今になってなつかしく手にさわりたいくらいに欲するような恋しいような私にもあったんだと確信したいようなものはきっとそのときにはあっただろうに忘却してすっぽりなくして平気でいたんだからああやっぱりそのときにはそのときの真実性がわかっていなかった、わからないもので、大切に残しておくことなんてはっきり覚えておくことなんてできないんだなあ、あまりに当たり前のようなへんてつのない毎日はそのときにしかなかった、もう一生戻ってこないもう二度と体験できないそのときだったんだなあということをがっつんがつんと宇宙からぶっとんできた隕石がちょうどよく私の頭にぶつかったようにして思い知る瞬間。まあはじめてじゃないけど、こうやって思い知るたびいたいのかなあ。
しかしふと思い出せたことが次にはあった。あ、でも電車おりて、駅前のスーパーで一緒にそれぞれの買い物をして別れるみたいなことはよくあったような、その買い物カゴを手にスーパーを歩いている光景は少しばかり思い出せるものだ。そんなで少しほっとした。それはやっぱりもう二度とないことと思う。tさんと何を喋ることがあったのかさえ今ではわからないくらいだ。次思い出すときは、今日思い出したよりももっと長い期間があいて、それを繰り返してその内すっかり忘れてしまうのかもしれない。特別なできごとではなかったから、そうゆうものはそんなふうになってしまうのかもしれない。それを忘れているときにはなにも思わないのに、何かはあったことを思い出した瞬間、ひどく愛おしくなり手に取り胸に抱え込みたくなり、すぐには手に届かずもうなくなってしまい思い出せないことに悲しくなったりする。あったはずなのに、あったのに、もう今には今を生きるには毎日の定期券ほどにはもう必要とはしていない、毎日携帯する必要もない、今とは直接的には繋がっていない、それで、私は生きていられる、それがなんとなく悲しくもなったりする。過去とはそんなふうにわかればなれ、遠ざかり、どんどん見えなくなっていってしまうものなんだろうか。自分一人のことじゃなく、他者がそこに一緒にいた出来事だからこんなふうに思うのか。まるでまるでなくなっていってしまうんだ。tさんだってきっと思い出すこともない。私もほとんど覚えていない。はじめから覚えることでもなんでもなかった。だから忘れてしまうのか?なくなってしまうのか?それは記憶としての存在を示すものとしての光を失ってしまうのか、いつか。なくなってしまうことは、かゆいな。いがいがするな。忘れてしまうと、それはなかったことになってしまうみたいでいやだ。思い出さない自分なんていやだ。忘れてしまう自分がいやなんだ。