液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


モーサムはすごくすきだと思う。
しかしシロップを聞いているとき、シロップを聞いていると、自分のすべてがゆだねられるような、自分の身体のすべてがシロップの音で染み入るような、すべてが融解してひとつになってしまうような、そんなものを感じてしまう。なんていうのか、なんなのか、それを言葉にして区別させることはなぜか難しく、しかし起こっていることはあまりに明らかで、あまりにシロップは他の音楽を聴くのとは違う。それは理屈じゃないのかな。シロップは私が生まれて一番聞いている音楽だ。五十嵐さんの歌、メロディ、言葉はあまりにも私にはいりこんでいる。だから?だからなのかな。
私はべつに、全然五十嵐さんの歌を理解ときしていないし、する気もなくて、ただ五十嵐さんの歌ううたは、言葉はあまりになめらかですべすべみたいに気持ちよい。肌を直につけてすりすり確かめられてしまうような、そんな歌詞なんだ。それくらいに肌触りがよくて、寄り添っていられる歌詞なんだ。ぴたっと、言葉のひとつひとつが水でぬれた水着みたいにすいついてはなれない。自分の身体んなかが一つの水中で、シロップの音楽はそのなかを自由自在に泳ぎ回れる。唯一のエラ呼吸の生き物みたいにして。
なにかを好きとするならば、じゃあシロップのこれはなんだ?なにになる?と思う。なにかを好きだと言っておきながらこころはいつもシロップによりそってしまう。おだやかな最後の時を望むみたいにシロップを求めてしまう。
なんだろな、それらが自分の中では矛盾みたいな違和感としてあって。うそを言ってるんじゃないか私はというような。いやうそじゃないのに。だがしかし、という足止まりがいつも起きる。何が私の足を止めるんだろう。よくわからない。わかっているのか。
そんなのしょうがないことだといえばそれまででそれが事実かもしれない。でも私はただの事実が知りたいんじゃなくて。事実とかじゃなくて、これはなんだ、なんなんだって、言いたいんだ。なんなんだよって、自分に言わなくちゃいけないんだ。
まあしかしモーサム大好きなことは本当だし絶対で何によってもくつがえらないけど。モーサムすきで、幸せだけど。それで十分たのしい。ただなんかふと思うんだよなあ。