液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

私はなんだかやっぱり、やっぱりなのか?やっぱりなんて言ってていいのか?もはやそこからつっこみ満載なのかもしれないけど、会社や社会のルールや慣習みたいなものになじめないものを抱いてしまうし、なじみたくない思いを抱いてしまう。でも、そんなのいちいちそんなふうにつっかかる意味あるんかなとも思う。そんなの大した意味もない、さらりとやってのけて流していってしまえばいいんじゃないかと思う。そうできたらどんだけいいだろう。いちいち反発感を覚え、自分を遠そうとしたりすることに果たして意味があるだろうか、そんなのただ一人で壁にぶち当たって一人でつらいだけだ。なんのいみもない。そこにはなんのいみもない。ただのフラット。無味無臭。そうやって見てればいいものを、私はいちいちそんなの変だとか本当はイヤだとかでもそんなこと言っちゃいけないのかなしちゃいけないのかなとどっちつかずにわからなくなって混乱してどうすることが正しいのかわからなくなる。ちゃんと、することができない。私はちゃんとやふつうがわからない。できないからだめなんだ。というような思いというか思いこみ、強い、もはや信念かのように脳みそくわれちまってる考え方はじーっとり根をはっているんだよなあ。それ、どうしようもないけど、でも、一生つきまとうのかな。もうとれない痕なんだろうか。
ちゃんとなんてわからない。ない。でも、なんかどうやらあるみたいで、みんなそれにのっとっているのがふつうみたいで、それをやってないとだめみたいで、だめじゃないと人は言うかも知れないけど私はそこに水の流れが色が勢いが臭いが変わるみたいな違いを感じる。私はそこでふと踏みとどまる。そんなむだなこと。だってわからないんだ。その流れにのって流れていいのかどうか。私はそこに足をふみいれるのがこわいだろう。違うと思うだろう。なんてことないただの浅い川かもしれない。それでも私は疑い深い。


金曜は早めに仕事があがれたから、帰りに青山の方へ寄り道。ワタリウム裏、青山ゼロセンターで開催していた斎藤陽道さんのせかいさがしを見に行った。なんだろな、プリントの色味が違う世界を味あわせてくれる気がする。というか日常のそこにある目の前、100m先でも1km先でも1000km先でもどこにでもある、でも斎藤さんが切り取ったその時。見ているとふーっとそのなかにひきこまれて知りもしないその場所や空や光の世界に入っていく。写真を見つめる楽しい時間とはそうゆうものだ。目の前に映ったものを見つめ、切り取るというのにはどれだけの労力がいるのか?というか何をするべきなのか?何を見ているのか見たいのか見ようとするのか。そんないろいろを思わされるけど、でも展示見てるそのときはただただすんなり写真を見つめた。

土曜は新宿行ってCDウォークマン買ってからディスクユニオン行って中古の羅針盤「らご」を購入。家買えってウォークマンでらご聴いてたら、なんかぶわーっと昔が思い出された。ぶわーっとソウルセットを知りもせず中古で買ってきて部屋でCDをかけたときの16歳のときのことを思い出した。エゾ行くまえだから時期も今くらいとかかな。その頃は中古をよく買っていたから。知らない音楽を聴くのが、知るのがたのしかった。興奮して、びっくりして、ああこんなものがあるんだっておもうと自分が許され励まされ肯定されるような気がしたんだろうか。そのどれでもない気もするけれど、私にエネルギーを教えてくれてはいた。なんかそんなこと思い出された。CDいいねの気持ちにゆらゆらしている最近。