ベットに寝転がりながらCDウォークマンでシロップを聴いていると、なんだかやばいことになる。やばい。スマホにイヤホン繋げて聴くのとは全然違う。ものが、意味が、耳が脳がつきささる感覚が。蘇ってくるようであり、いややはりそれは今に生まれてくるもの。まるで川の中を体ごと流されるみたあにざあざあとざばざばと思いが、感覚が、言葉が、問いかけがふってくる。私の生命みたいなところをゆさぶってくる。のうみそがふるふると震えている。めざめる何か。それは忘れてしまっていたもの?思いだしたもの?
何日か前からハピネスという曲が聴きたくて聴きたくて聴かなくちゃと思っていたのに、疲れて家に帰るとすっかり頭からぬけてしまう。一昨日の夜ようやくとりかかれた。まるで一度死んでまた生まれてきたような感覚をあじわう、その音に。それはそうゆう音。死があり再生するような音楽のアルバム。そんなのずっと前から知り、わかっていたような気がするのに、いやでも明確に言葉でとらえたのは今が初めてではないのか?
ハピネスが入っているCoup d’etatというアルバムはなんかなんか他のアルバムとは違う思いの感じがあって、前からそれがなんなのか、なんのせいなのかわからないでいた。それは何かではなくただ音楽のせいなのか?このアルバムはすごく強い感じがする。他とは圧倒的に強い感じ。全体の雰囲気が。それは歌詞とかメロディとかじゃなくて、全体のサウンドが相手を蹴落としてやるかのような強気な態度であること。急な角度で上昇していく力。そしてそこにあるのは佐藤さんのベースの音なんだ。それはやっぱりやっぱり他にない音だと、すんごい久しぶりに思った。その音が、どうしようもなく重たい液体のようにどろどろと私のなかで踊る。鳴る。まるで美しいんだ。にぶい痛みをともなって。
ベットの上で、朝、出勤する日曜の朝、聴いていたら、いくつも問いかけられた。この音のことを忘れてしまったのか、この音に心底ほれこんで、すきですきでたまらなかったそのもののことを、美しいという言葉を見つけたその感覚、毎日のように聴いては聴いていた耳からはいるその感覚、心地よさであり安らぎであって私が見つけられたものでもあった。私は五十嵐さんの歌にほれていただろうと思う。それは時代であったのかもしれない。偶然であり運であったかもしれない。でも、私個人で語ろうとすればそんなのは知らない。
ふと五十嵐さんはなんだかずいぶん遠くなってしまったと思う。下北沢Queでやったワンマンでいえばまだ物理的距離は近かった。6月21日だったかなー。たとえば今クーデターの曲ばかりのライブが見たいと思ってもきっとそれはもうなくて、あのときにしかなかった。私はそれを見ているが、しかしもうない。またあることはない。気づけばどんどんどんどんシロップの記憶を思い出すことは減っているじゃないか。そのことにすら気づいていなかった。あっ、やばいと思った。すごくやばい。だって、なんか、私シロップのこと忘れてしまうなんて嫌だし、そんな自分いやだし、シロップのこと忘れてしまったらなんにもなくなってしまうような恐ろしさでもあるような。シロップの曲はいつだって聴いている。でも、それとは違う。ただ曲を聴くことそのものじゃなくて、じゃなくて、じゃなくて。なぜ昔、私はそんなにもシロップが好きでそしてなぜはなれていってしまったんだろう。見続けることができなかった。
昔はMDウォークマンでシロップに限らずとも色んな音楽を聴いていた。ラジカセでももちろん聴いているんだけど、イヤホンで聴くことには自分だけがその音楽と接している親密さがあったはずだ。しばらくそうゆうイヤホンからは離れていたから、久しぶりにまたイヤホンをして私は興奮しているし、そうかそうかと音楽のおもしろさに納得をしていたりする。たったイヤホンというだけのこと。でもそれはデータだけじゃなくて、ものを伴っている意味が付随しているんだろうか?CDウォークマンの魔法かどうか。
日曜出勤をしていろいろなストレスのようなものだけ、自分勝手なイライラや不安感やどうしようもないものだけが持ち帰られる。そのときそこに自分の受け入れているストレスの様を見る。ああ働くって大変だ。気味が悪いことになる。みんなよくやってるなあと思わずにはいられない。シロップ聴いてねる。
月曜の朝バスのなかでウォークマンでハピネスを聴く。音楽からたいはんのことを学んだとして、そのなかの大半を占めてくるのはシロップだし、五十嵐さんの歌詞はやっぱ最強だなと思う。言葉の用い方、響きが最強だと思う。私には何よりもきらきらした宝石みたいに見える。 私はこの歌で生きてきた。という感触がある。それを与えてくれるだろう。全世界的に共有できそうな普遍さとしかし誰も踏み入れられないような個人的さと。いつまでたっても近づけやしない。
ああやっぱり佐藤さんのベースってなんか違う。いいバンドの音だなー。