1日にはオルケスタリブレのライブを見に行って、昨日は毎年恒例のROVO@野音のライブを見に行って、ようやく仕事も一人暮らしも少し落ち着いてきたこともあってライブを見に行ける余裕が持てるようになってきた。芳垣さんはやっぱりかっこええーというとこにいつもながら着地するわけだけれど。ROVOのときはいつもたいがい後ろで見るけれど、野音であれば後ろでもずいぶんよく見える。他のライブではわりと近くで見ることができるわけだけど、その両方の距離感から見るとよりおもしろみがあるもんだと思う。

ROVOはまあほんと見ていて美しいなあと思うようになった。うつくしくなっていく。とにかくROVOははじまってから終わるまでへ向かっていく様がすべてだと思う。それは音であり、それにともなったバンドとしての迫力であり。またそれは1曲ごとであり、全体を通してであり。

今年はMDTとしては初のワンマンということで2セットにわけての演奏でファーストセットは即興、セカンドは通常みたいな情報を知っていた。私としてはそれはすごくよかったんじゃないかなと思う。ROVOを聞くうえでそれは功を奏していたように思われた。なぜなら、即興を通してROVOの音楽はこんなんしてできあがってきてるんですよみたいな、通常の曲の演奏の前にそれらの大元のような骨組みを見せてもらえたような気がするから。それがとても面白かった。

それにしてもROVOとの付き合いももう12年。し、しんじられないけれどそうゆうこと。わたしも年をとったけれどROVOの人たちも歳をとったと言うことが信じられない。信じられないとゆうか、ときや年齢や時間というものを、音楽を聴く上ではあまり考えたことがないということだろうか。音楽の中では私はいつだって十代のママとゆうか、変わらないでいるような気がするからだろうか。おそらく10代で見ていた景色が強い、だからだろうか。

そんな長い時間を見てきていてもいつも新しく思うことがある。いやそれは前にも思っていることなのかもしれない。それの繰り返し、再生産、ちょっとした付けたしかもしれない。それでもそれは私の頭の中で新しく浮かびあがること。その時その都度にしか見れない情景がそうさせる。

最近はずっとROVOのライブは、曲の始まりから、盛り上がるところまでの時間が1番楽しくてしょうがない。繰り返されるリズム、そのリズムの中でピンボールの球のように空間を弾き跳ね返されながら遊んでいる状態。盛り上がりの絶頂を迎えてしまうとフェードアウトの時間のようにも感じられる。リズムと山本さんのギターの中で遊ぶ。転がる。軽快に、身体が弾んでいる。そしてそのうち体がふわっと浮き上がるようにして違うところに着地する。例えばそれら一連の流れは片栗粉を入れるとふわっとした瞬間を迎えてとろみがつくような、時空が変わるような、軌道が変わるような、クレンジングクリームの重さがくるくるしているうちにふっと軽くなるような、2時間が3次元にふっとしたその一瞬間になってしまうような変幻さがある。その一瞬のあいだは両者がいり混じった、特殊な、ぐにゃりとした時空間がある。そこに踏みいることもまた楽しい。

今年もまた山本さんのギターは非常にすばらしかったことは大きな収穫だ。あーもー山本さんのギターはかっこいい。曲名忘れたけれどアコギを使った曲がむちゃくちゃかっこいい。ぬはー、思い出してもほんとみんなかっこよかライブだった。ROVOの美しさってなんなんだろうなあ。もう長いこと一緒にやってきているしそれぞれに関わり合いがある人たちだから呼吸の合わせ方もよくわかっているんだろうけれど、それでもなお、より、求めていくところに魅了されてしまう。もうこれはついていくしかないんだろう。もっともっと見える世界へ。もっともっと見ていかなくちゃならない。

しかしライブとしては昨年のほうがよかったんだと思う。なんでだったか昨年は特にぴかいちで良かった気がする。加えてパソコンも持っていないしでSDカードは買わなかったけれど野音のライブとしては年々非常に音のよいライブになってきている気がする。今年はいつもに比べるとワンマンだからかお客さんが若干少ないような気もしたけれど相変わらずの客層でそれがまた見ていて面白い。子連れが多かった。また照明チームもその仕事はとてもすばらしい。野音の日照日暮時間を計算しての曲の演奏順また照明、映像の使い方がこの上なく興奮する。例えば豪華な映像機器を使わなくてもシンプルのようにも見える照明演出でも、ROVOの演奏の迫力、野音であることとの相乗効果は他にないものがあるような気がする。めっきりフェスには行かなくなってしまったけれど、やはり外で音楽を聴くのは特別なものがあるようだ。

楽しかったー。

ついでに野音いく前に銀座でギャラリー小柳と資生堂ギャラリーもまわって、まあなんとなく仕事ストレスを忘れた、だろうか。