昨年5月の五十嵐隆名義のライブ、「生還」の映像を見た。いやなんか私が見てたシロップのライブ映像っていったらブラウン管テレビ時代だから、も、blue-rayでこんなにきれいでシロップのライブ見れちゃうなんてことがまず妙。変な気がしてしまう。youtubeにもあがってる、viewsicのライブをビデオテープで録画して見てた時代だからなあ、そりゃ違うわ、すごい違う、時が違うわ。

やはり、このときから演奏力はずいぶんあげていたんだなあ。そこには中畑さんの果たしている役が大きく感じられる。五十嵐さんのギターと、そこにかけあがってくる中畑さんのドラミングがねえ、特別じゃないかもしれないけれどたしかにそこにはシロップでしか感じられない高揚があって。他のドラムの音が考えられない気がしちゃう。どんなもろさも弱さも強気で曲を前へ押し出してくれる。解き放ってくれるような優しさと力強さが、まあそのまんま五十嵐さんと中畑さんに見えることなのかもしれない。

しかし新曲軍がまたすばらしく良いんだなあ。曲を沢山つくれることは幸せなのかな。その一曲一曲おりてくる音楽にことばをのっけて、更に更にと求めていく作業はしんどそうにも思える。けれど、ここでやった曲を新しいアルバムにはいれず、俺こんなに曲かけるんだよって言いたいと思っちゃうくらいに無邪気に音楽と、メンバーとつき合えるならそれは良さそうだなと思う。

でも一番感動してしまうのは最後の翌日だった。これ聞いてたら、まだフリースローしかCD持ってなくてだったかCOPYも発売されたころだったか、とにかく喜んでしろっぷを毎日聞いてたころ、フリースローのなかでどの曲が一番すきかなあっていうことを一人で必死に考えていた。翌日と明日を落としてもだなあ、どっちかと言ったらどっちかなあと、べつに選ばなきゃいけないなんてことないのにその2曲のなかで悶々としていて、でも最終的には明日を落としてもに軍配をあげた。そんなことをしていた15歳のことはついこないだのことのようによく覚えてる。明日を落としても誰も拾ってくれないよという歌詞が、たまらなくポップに響いてきて嬉しくて楽しかった。そうだよねうんうんってような気持ちで笑顔ではしゃいで聞いていたんじゃないだろか。
そんな風にしろっぷを聞いていた。翌日は、毎日変わらない流れていく風景のなかで、それを額縁できりとるような曲に感じていた。翌日という曲がある風景を見せてくれた。いつ何度聴いても懐かしさと新鮮さを感じる。そんな曲の前にあれは泣けてしまう。そんなことを歌えてしまう五十嵐さんと、そんなことを歌う五十嵐さんの横に一緒に立てる中畑さんとまきりんとが、このシロップというバンドをつくってきた、つなげてきた3人の限りない強さだと思う。音楽をつくる人たちの強い意思や覚悟みたいなもの、またこの3人で演奏をすること、ステージに立つこと、受け入れて受け止めて、ああなんか素晴らしいなと思った。音楽ですべてを解決できるわけじゃないけど、またこの3人で一緒にやるからこそできることがあって、それがかっこよくってかっこよくって楽しくって気持ちよくて、お客さんを感動させられるなんて、みんな愛おしくってたまらないでしょと思う。

先月のフォーラムのライブを見に行ったことは、大げさかもしれないけど大げさではなくまともに感じることとして私の人生に大きな影響を与えたと思う。あの日見れたこと、それはあまりにでかい。今なんてやばいなと思うくらい毎日シロップが聴きたくてたまらない。この10年もずっとCDは聴いていたけど、フォーラム行ってから私んなかでもう一度引き金がひかれたんじゃないかというような印象を受ける。だって今の好きななりようが、ふと、まるで10代のときみたいだ!と思ってしまうんだから。こんなにシロップが好きだなんて、こんなにいれこんじゃうなんて、10代のときとおんなじようだと思った。またこんな風にシロップを聞けることがうれしいと思ってしまう。またこんなに好きになれるとは思ってもみなかったと思う。

まあそれもあってかそれもなくてもか前々から思っていることとしてはシロップが好きすぎちゃうところがあって、思いいれ強すぎちゃって、他に、例えば人とか、シロップ以上にいれこんで好きになれたりするものだろうかという疑問がついついわいてしまう。まあたぶんないかもと思いつつ。

はたしてまたシロップの3人見れるのかな。とつい思ってしまうファンこころ。なんかでもこうなると昔いっぱいライブやってたのが嘘みたいだな。

しかし、COPY作ったのは五十嵐さん27、28あたりのころだよなあと思うと、その才能に嫉妬しちゃうなーと思う28の私。今の五十嵐さんにはだから嫉妬もなにも感じないけど、ただその才能すごいなーと思うだけだけど、今の私と同じ年のときにあの言葉ぬきだせちゃうってことに、どうしようもないものだけど、そんなふうになにかを作り出そうとするそのエネルギーそのものに嫉妬するってことかも。いったいどんな風にもの見てたんだと思う、どんな景色をと。まあしょうがなくわからにのでじゃあいま自分はなにを見ているかと同時に問われてくる気がするという。