今、シロップのツアーのぴあ先行が行われている。母にも協力してもらうため、ライブの先行があってという説明をする。なぜかそこでわざわざ、まるで昔と変わらないかんじで、誰の?と聞いてくる。シロップ、と答えると、えー!そんな先行なんてやってるの?!と驚く母。そうだよー、今はもう大変なんだからーと答える私。まあ武道館でもやってるとまではわざわざ言わなかったけど。
でもその母の反応はめっちゃおもしろいなあと思って。そんな反応できるなんて、なかなかやるねって話で。私が16.7でシロップ追っかけてたときはたしかにそんなバンドじゃなかったからなあ。いやあったかもしれないけど今みたいなぴあシステムにのったというかぴあシステム自体あったかどうか。母にとってシロップはたいして有名じゃない人たちだったんだよなあ、まあ実際そんな認識で間に合っていたはずなんだけれど。
シロップとモーサムと菊地さんとか芳垣さんくらいは母も覚えていた、たいがいそのライブに行くから。そんで私がすきなそんな人たちはまあそんな大きなシステムにのったりしないっていう、そこだけ昔の感覚がうかびあがっちゃうんだろうなあ。今はなんだって先行ばかりあるけど、それは昔はそうでもなかったような気がするし。あってもシステムがとにかく違うのか?昔はライブでチケットもよく買っていたような?
なんか、そんなささやかな母とのやり取りにやばい充満さをみちゃう気がしたりして。もう両手ひろげてもとらえられないはみだしあふれちゃってる時間は積み重なり重みをまして圧縮され全量もわからないのにただただ体で感じる重み膨らみはあるものの目には見えないただ感じることでしか見えない実感みたいな、よくわかんなくなっちゃうけどそうゆうやつ。それがぶああっと煙にまくみたいに風呂敷ひろげるみたいにして現れる感じ。なんか、12年も前のことが、つい昨日のことのようによくちらつくんだ。それは本当に昔のことなんだけどそこにいる自分の手触りはまだまだ生々しくあたたかい気がしている。そうゆう光景っていつまでもあったりするんだろうか。