液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

はたしてここを見ている人がいるかどうかなんて謎すぎる。最近じゃすっかりライブの感想などを書くだけと化している。しばらくは書いてもいまいち消化しきれないようなざらつきが残ったものだけど、慣れてというか続けていたら昔の勘を取り戻したとでもいうかのようにやっぱりライブの感想書くのは楽しいなと思うようになってきた。なんか、楽しいんだよなあ。たぶんもう昔から書くこと想定で見ちゃってるわけで、でもそれがあるとより積極的にライブ見れるんだろうなあ。そして書いていると書いている途上でまたどんどん見たライブがふくらんでくるからもう一度かみ締められるような感じで、それらが楽しいってとこに行きついちゃうのかなあ。

今はツイッターがあって、それでもうずいぶん違うなあと思う。昔はライブの感想って言ったら個人の日記やサイト、あとはにちゃんねるみたいなもんだった。感想なんてものをわざわざ書く人達はわざわざ書いているようなもんだった気がする。それはわざわざ書く人たちと書かない人たちの二者だったのではないか。それはかなりわざわざだった感じがするけど、たとえば個人のページを持ちその決まったフォーマットを開き書き込むということ、そのわざわざを見つけて読むっていうことがとても面白かったように思う。けれどツイッターであれば誰しもがじゃないけどたいがいの誰しもが気軽に手軽に感想や状況を述べることができてまたそれを多くの誰しもが見ることができる。それを見ていると時代は随分変わったんだなあとしみじみ思う。べつについていけてないわけじゃないのに、こんなところで変わらず長々とわかりにくいようなあっちこっちへいったりきたりみたいな文章を書いている私はもうずいぶん深い地層に来てしまったんだろうかと、はて、と思う。

もう最近は日記だブログだというのはずいぶん下火になってきたのかなと思う。昔々から読んでいたあらゆる人たちなんてもうほとんどいない。それは時間の経過として自然消滅的なものとして当然なものなのか、時代の流れってやつなのか。人はみんな変わっていくから、そのなかで文章を書くことに熱をあげられる時期なんて一定の期間でしかないということなのか。それは若いときにしかない熱量の姿なんだろうか。若いというのは数字で示せる画一的なものでなくて各個人の持つそのときにのみ放出されているエネルギーのようなもの。みなそれが生まれ終わっていく。みんなそれで更新がなくなって広告だけがあがって消えていってしまう。なんだかそれはとても自然な消滅の姿たちのように思えるなあ。そしてじゃあ私はなんなんだろかと思うんだけれど。

今じゃもう書かなきゃとか書くんだという脅迫めいた切迫感はない。書いておかないとという怖れがなくなったみたい。書きたいんだという意志も未来も。1日24時間では毎日とうてい足りない気がする毎日の中で日記を書けないというより書くという選択をしないということ。書くということが自分の優先順位としてずいぶんなくなったんだと思う。それはあまりに自然にゆるやかにそうなっていったみたいだから、自分の中でもなんの不思議もない。ああ私も年をとったのねで片付けられる。
けれどそれでもなにか心残るものがある。だからここで続けているんだろうけれど。欲求はなくなったはずなのにでもやっぱりあるらしい。本当は毎日の何かを記し残しておきたいという希望のような不安のようなものが。とりあえずここ数日でipodにkrankeの感想を書きとめているんだけどこれがなかなか進まないというか書こうとすること多すぎてやっぱり話があっちゃこっちゃ。やっぱ私だめだなと思いつつ、はたしてツアーはじまるまでに書きあげられるのかと。
それでいてシロップの前にrovoあるからなあとrovoも聞きこんだりする。ああはやくrovo見たい。3月にやってた新曲たちがまたどうなってるか。はやくrovoはじまる時間になってくれたらいいのにと今から思っている。そんでrovoの前に芳垣さん見れるチャンスがあるかどうか悩み。ブックオフ行ったら羅針盤がそろっててうわどうしようと悩む。amazon中古で色々あれこれ見ちゃう。でも今一番楽しいのはギターやること。ただいまシロップrebornを練習するもセーハが大変、でもギターひいてうた歌うのちょうたのしい。セーハが難しくてたどたどしいわ音きれいに出るときと出ない時とで四苦八苦するわだけどシロップ歌うのこんなに楽しいんだなーと。ずっと聞いてきてる音楽がまたこんな形で自分に流れ入ってくるんだなっていう新鮮体験。でも少しでもいいからうまくなりたいって、思うんだなあ思うもんなんだなあみんなそうゆうもんなのかなあ。
誰が見ても見てなくてもとりあえずこんな調子で書いてるのがやっぱり自分のなかで楽しいなってことなのか。