液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

なんだろう、なんだろうなあ、しかしこれはやはり、なにかなんだなあ。不安みたいなものなんだろうなあ。どこかにある、どこかである、不安というゆらぎ、ざわめき、定まらなさ。どこかで、シロップを昔と同じように好きでなんてはたしていれるんだろうか、と。同じなんてない、わかってる、はずなんだが、じゃあそれで好きでいようとする私ははたしてどうなんだ?私は昔とおんなじようにシロップをすきでいれるのかな。いれないとしたら、それはなんなんだろうと思う。相変わらずどうでもいい疑問がわきあがる。
なにもかもが違う気がしてくる。そんなこととっくに気付いてるしわかってるし。それをのりこえて受け入れて今のまんまのシロップをどんなふうに好きでいれるのかなという自分への疑問。
五十嵐さんのギターの音が大好きだったろう私。でももうそのギターの音は鳴らない。もう昔みたいにいろんなライブハウスではやらないし、いろんなバンドと対バンするライブなんてそうそうないのかもしれない。たとえライブハウスであったとしても、もういつも遠いのかもしれない。なんかな、その遠さは単純にさみしいし、よく見えない。遠くてよく見えないってやつだ。
それは物理的な距離だけのことでなく、まあそうか、私も年をとったからなあといきつくけれど。
同じ色した青春なんて二度とないんだろう。同じ未来なんてない。だから永遠の青春が存在しうるとして、それでいて変わりゆく現在を生きなきゃならないのは、どうしようもない。それでも永遠の青春は生き永らえるんだなあ。あらゆるパワーの源みたいに。
ああでもなんか書いていたらすっきりしてきたかも。要は我ながら不安だったんだ。同じように好きでいられるものかどうか。気持ちが継続するのかどうか。また途中でそっぽ向いてしまわないかどうかという自分に。好きなものはいくらでも嫌いになれてしまう。愛せるかどうかなんだなあ。いかに、どんなふうに。自由があって、ない。しかし愛すというような。