液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない


仕事に行く前20時ころタワレコで雑誌、あれはなんだったのか、MUSIC MAGAZINEだったのか、適当にただ手にとったけど2010年代前半のアルバムベスト100ってのが表紙に書いてあったから手にとって、そしたらモーサムの記事があって、小野島大さんによるものだった。まさかモーサムのってるとは思わなかったからあらまあと読んだら天国盤のレビューみたいなんと、ももの軽いインタビューみたいなんとのまざったもの。そこではじめて天国盤は8曲中7曲がイサムさん作曲で、たしか歌舞伎町(ローマ字)なんちゃらってのがタケイさん作詞作曲って書いてあった気がする。だからももは作詞に専念しているみたいに書かれていた。でもそこに関するももの発言がおもしろかった。モーサムはももがインタビュー受けてること多いからいつももも目線の話ばかりになるけどそこから見えるモーサムの景色は面白い。なんて曲だったか忘れたけどももが最初作ってきた曲なんだけどボツかなと思っていたらイサムさんが気にいって作り直してきたらよくなってという話や、nutsがイサムさんがキラーチューンとしてやりたいともってきたから、それにこたえるというか、イサムさんのその熱におされて書いたって話とか。なんかうまくまわっているのかなあと思う。うまくまわりすぎなんじゃないかと思いもする。でもそこにしれっとしたドライなかんじがモーサムはあるからなあ。なんか年とったんだなあとは思わずにはいられないけど、誰しも若いまんまでいられないし、しかしその昔、若いころを見ることができていたんだから、昔を見ていたからの見る今だから。
そしたらちょうどnutsのMVも公開された。え、なんか、大学のころみてた映像に似てるな。それをこの時世に見るとは思わなかったけど、なんかまあ好きにやれているのかな、わからん、そうだモーサムはわからんのだよなあ。シロップのMVもあまり意図わからないけど、モーサムは自由度高すぎじゃなかろうか。

それからthe fin.のアルバムを買う。なんかタワレコ行くとバンドっていっぱいいるんだなあとしみじみ思う。まあ新宿タワレコだからかな。今すきな人たちはもはやみんなベテラン組に入ってきているからあまり心配がないが、久々に若いバンドなんて好きになってみると、どう続いていくかどうかとか気になりはじめるという。思い出してみると、昔にもいいなと思ってもけっこうそんなに活動が盛んにもならずにおわってしまっていったバンドもけっこういたなあと。そう思うと改めて音楽を続けたり売れたりすることって簡単なことじゃないんだなあと思わされる。
仕事終えて24時すぎに帰宅。CDウォークマンひっぱりだしてきて寝転がりながらイヤフォンあてて聞く。なんかテンションあがって2周聞いちゃう。youtubeにあがってるライブ映像見ても良い感じだから、ライブ見るのは楽しみだなー。私としてはベースとギターがけっこう好みなんだと思う。ベースはたぶん柏原さんみたいな感じがあるのかなあ、ちょっとなんかポラリス思いだす感じが曲によってはあるんだよなあ。でも全体のサウンドが違うからまた違った心地で聴けるのがおもしろい。このバンドをいいなと思ったとき、思ってから、そうそう私こうゆう音も好きなんだよねと思った。自分の中の嗜好がいくつか方向があるとして、いくつかあるなかで、スリーピースなどのごりっとしたバンドサウンドが好き(downyなんかもむりやりここらへん)、ROVOやデートコースや芳垣さんたちの層の広い音のグルーヴたっぷりのものが好き、キセルは私のなかではキセルに似た音楽はなくてグループとしては他に一緒になるものがなく、アコギと歌のシンプルな強さがあるものが好き、それにthe fin.みたいな音楽こうゆうのがなんていうジャンルみたいなものかわからないけど曇り空的なあかるさでゆったりぬけたような心地よさがあるものが好き、といったもの、まあそうゆう自分のなかからいくつか、いくらでもありえるんだろうけどこうゆう音楽がすきという枝分かれするものを認識させてくれる。全部は統合されうると思うんだけど。
音楽のジャンルなんてのは結局ズラした視点のものごとで、ようはその音楽をつくる人間たちが生み出すということ、そのことがすべてを決めているんだろうと思う。しかしジャンルというような区分けを与える言葉はないと不便であることで物事を整理する。その整理はにわかにでしかなくとも。でもなんか昔から思うにやはりジャンルというものを扱いたがるのは男が強い気がする。ジャンルというものを扱うのがもうそうできているでしょうと。だからなんか本格的に使うことにはなんとなく嫌な感じはするんだなあ。

今更ながらいろんな音楽をもっと聞いてみないとなという気になっている。十代のころのそのようなものとはまた違う感覚。なんかななんかななんかな、我ながらそのような感覚になれたことにどきどきしている。わくわくでもあるのか。それはやっぱり一時期は音楽を聞けなかった自分がいて、そこからこんなふうに戻ってくるなんて信じられないから。音楽を愛せなくなってもーという歌にゆさぶられるのは自分をすこしばかり重ねて見てしまうからなんだろう。すべて一致して濃度100パーセントでかぶさるわけじゃあないけれど、うっすらとにじみだぶる自分の姿をそこに、すこしは見てしまうんだ。音楽をまたこんなふうに好きでいるとは思わなかった。もうないものかと。そっちに感覚はまだいるのかもしれない。でももうずっとそんな感じっちゃ感じ、生きてること自体が。慣れない。生きてるというか生活している自分になれないような。
だから、もう今度ははなしてはいけない気がするし、いくらでも愛そうとすればいいんじゃないかという気でいようと思う。もう失うものなんて、失うことを考えることなんかに惑わされたりしたくないんだろう。なにもかもを失くすほどの勇気もない。なにかを守らなきゃいけないほどのものも手にしていない。こうゆうとき安吾の言葉はなんとなく漂ってくる。
しかし昔はいくらでもあった気がする音楽を聞く時間が今じゃまるでないような気がするのは気のせい?なんだこの違いは。世界が違うんじゃないかと呈したい。そして近場のツタヤは小さい。なんかいい方法あるかな。でもほんとはやっぱ中古ででも買いたいんだよなあ。