液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

ああなんか、シロップ見る何日か前から自然とシロップ聞いちゃってて、そして見終わってもそのままその熱が続いてしまっているような。でもそれはごく自然でふつうで、平熱のようなだけでもある。しかし、なんだか今回はほんとうに見たんだっけかっていうくらいにあとあじがうすい。まあ家からあまりにも近い、行きなんて車で10分かからずくらいで送ってもらったし帰りもいつものライブの帰り感覚とはあまりに違った。そんなんが影響してるんだかなんだかわからないけれど。

でも思い出せるのはスーパーアリーナで見たときにうわっていう、感動があったのは、スタンディングで下から見あげる景色だったからなんだろう。それは親しみがあって、見えなくてもあたりまえで、そうゆう空間、空気、そうだ昔はいつもこんな風に見ていたんだと思う。まわりが熱気であつくもわっとした空気に囲まれたことは、なにかそれは記憶を呼び起こすというか記憶に触れるような気配を呼び覚ます感じがあった。それは去年のリキッドルームROVOのときもそうだった。熱気の湯気。人の呼吸や蒸気。そこにかおを埋めてしまうような感覚は熱狂そのものみたいだ。

シロップでのそれを感じることはなまなましいリアルだった。シロップをすきな人たち、後ろや横にはけしてシロップファンではない人もいたと思うけどそれでも隠せない興奮をはきださずにはいられない人たちのこもった吐く息、人のにおい、動物的な熱気とでもいうのか、それはステージにたつ3人そのものよりもリアルだった。それが面白かったな。

ときどき?たまに?自分はやっぱりシロップが好きな、シロップを好きになる人間だなあ、なんだなあと思うときがある、あった。まあ普段忘れているだけで思い出せば自覚的になれるんだけど。自分の汚さ暗さ卑しさ卑屈さ我儘さ、自分の中身がよく見えるとき、それらは本質というか私の核心だなあと思う。

今はもうすっかり自分はわがままで傲慢で調子がいい人間だと思っている、思う、感じる、認識している。思ったところで自分に嫌になるということもなくなった。それを治すとか良くしなきゃいけないと、多少は思ったりしても、状況環境によってはまあ無理かなしょうがないかなと思っている。特に治すようなキッカケも理由もないんだろう。いやな人間だなと思うけど、それが自分なんだなとよくわかってしまう。それを蹴り上げるだけの体力はもうないみたいだ。そんなふうになれたのは幸福とも呼べるだろうか。もしくは老化ってこうゆうことなんだなって受け入れることなのか。それだけのことなのか。

今は安定して働いてお給料をもらって普通を装えるだけの生活をしている。けれどそこにはなにか足りないよう感じることがある。足りていると感じている時もあればないときもある。その両方がある。だから自分がよくわからないなと思う。

汚いものとはもう縁を切りたい。汚い自分を露骨に見たくなんてない。そんなものはもう捨てた捨てた、もう沼の中だろうくらいに思うのに。汚いものとはもう手を切りたい。いくらふり切り捨ててもまた気づくと手には泥がついている。汚い。