液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

先月の30日、TRANSPARENTZと、百々和宏と狂った馬を秋葉原グッドマンで見た。気持ちはやめに行ったらすでに人が並んでいた。んで並んでいたら渋谷のイケベ楽器から電話があって先週予約しといたギターが入りましたよの連絡。アンプのことも聞いたりなんだり、しかしすぐそこにイケベ秋葉原のベースのお店があるからなんか変なような気にはらはらとした。開場してドリンクもらいに行った時になんかこの関西弁の喋りの人は聞いたことがあるなあと思ったら山本さんだった。なんか今日は元気そうだなと思ったり。はじまるまでに何度か行き来をしている山本さん。先はももバンドかなと思っていたけど19時になったころ幕の隙間から上手のアンプが見えて、あれ、ローランドのアンプにマイクが立ってる、てことはもしや山本さん、TRANSPARENTZが先なのか?と思ったら、やはりそうであった。企画者なのに先手なのか、さすがだな・・・と思わされる。
はじまりからノイズの爆音なのであった。あーやっぱり私がこわそうだ、見に行くのは簡単にいけないなと思っていたことは当たっていたと思った。山本さんはあの、銀の筒みたいなんを指に装着して弾いてたな。あれ名前なんていうんだっけ覚えてないけど、あれしてるのって間近で見たことあるのはももだけだったから、おお奇遇だなみたいな。ドラムがひたすらずっとエンディングかのように力一杯たたくことが終わらないということがなんだかすごい。なんか心配になるくらいだ。音がこんなにも続いてしまうということはまるで残酷だと思えた。イッシーさんは塚本晋也にやはり似ている気がする。山本さん側にいたからあまりよくは見えなかったけどなんかとても気持ちよさそうにベースを弾いているんだなと思った。中盤過ぎくらいでか、山本さんのギター弦が一本切れ、またもう一本切れた。そのせいか後半は机かなにかに乗せていたようなチューナーみたいなものをいじる場面が多かった気がする。しかしなんかあんだけギターを弾きつけば弦は切れるんだということを、今一度改めて見た気がした。山本さんのネックを上へ下へと移動してギターという楽器を使って音を出すんだという行為は挑戦的ででも愛情も感じられるようなそんなギター抱きしめ感もあるようだった。
しかし耳がやばいなー、こりゃやばい、次のももバンドまともに聞こえるのかなと心配にさえなる。そういえばこないだもグッドマンでノイズ聞いたよなあ。嫌いじゃないんだけどどうしても上手寄りにいるぶんスピーカーが近い気がして耳が心配になる。でもそれとは別のとこで音の気持ち良さがぬらっと身体にはいりこんで足を浅くするするそちらへすべらせていっているようでもある。一瞬間が今ここにずどどど落とされてきているよう。いくつものあらゆる一瞬が今ここで永遠として引き伸ばされてゆくような。なんだかそんな音楽だと思った。山本さんがマスクをしていたがいやそれ暑いだろうと思っていたけどついに最後までとらなかった。

この日になってそういえばももは何をやるんだろう、あそうかソロの曲やるのかーと気がついた。しかしこのバンドは初披露だ。だいたい私、モーサム以外のもも見るの初めてだった。なんか、ライブでいえばそこまですごくは興味があるようでなかった気がする。出てきたももがオレンジよりのベージュみたいなふわふわのカーディガンを着ていて、あれそれって昔も着てなかった?と思う。昔って、けっこう昔、十年とか、あれ、違うのかな、でもそうゆうふわふわのカーディガン着てたような、もし同じものだったらすごく物持ちがいいのか?とイメージが右往左往まざる。
なんかー、うわー、そうかー、とか自分の中だけでいろいろ思っちゃうわかっちゃうような気がしてしまうことがいろいろとあって、はらはらして、ぱらぱらいろいろめくれてくるようで、面白かった。そうかそうかそうなのかと発見しちゃうような、自分の中だけでの、ささいなどうでもいいことなんだけど、なんかでもこうやって音楽を見にくるというのはバンドを見て、その個人をみて、また自分を見るような複眼的な作業でもありえるんだなあと思える。簡単に単純に、モーサムでないももを見たらいかにモーサムモーサムなのかってことがどっかんはっきりよく見えた気がしたのだった。前にももがソロや他で組んだバンドをやったうえで、モーサムでしかできないことがあるというようなことを言っていたと思うんだけど、そのことが、そうなんだそうゆうことなんだと言っていたことがよく伝わって気がした。
この日のももはすごく楽しそうにギターを弾き歌っていると思った。たぶんムスタングだったと思うんだけど(ギターだけよく見えなかった)音がゆるやかでよく伸びていてリラックスしている。そうゆう音を心地好さそうにだしている。よく喋り、飲む。とても平和であたたかいようなお客さんとのやりとりと空間。もうそんな事柄すべてに押し倒されるよねわたしと思う。ああそうかー、モーサムではこれがないし、ないのがモーサムなんだなあと、そしてそこでのももはモーサムでのももなんだなあと。モーサムはやっぱ、闘争してるんだなあと思った。それがモーサムだったんだ、と、改めて思い知る。ぐう。あっぱれだ。
モーサムじゃないももは悪い意味でなく、ちゃらいなあと思う。なんかどこかで想像や予想はあったような気もするし、それで全然驚きもしないし、そんなリラックスした社交的なももがももなんだろうなあと思う。そしてそこに一緒にモーサムもある。もものそのバランスのとりかたは器用ということなんだろうか?わからん。でもほんと改めて近年のももやイサムさんがインタビューで喋っていたことが頭に蘇ってきて、なんで互いを互いとして受け入れていくようになったのかみたいなことをただ年月ということだけでなく具体的な事柄の変遷として受け止められたようなそんな気持ちになった。イサムさんとしても、ももがモーサム以外でやるということで今までになかった穴が開いて新しい空気が流れ込んできたりとかがあるのかなとか思う。タケさんはあまりぶれなさそうかな。
モーサムの生きる強さというか、粘り強さみたいな、そんなもんを改めて考えてしまうなあ。ほんとそうゆうところモーサムはめちゃくちゃおもしろいよなあ。面白いと思うなあ。モーサムでのももは硬派だったんだなあ。