高田渡トリビュートライブ''Just Folks''@武蔵野公会堂を見にいった。去年のキセルライブビート収録の際に兄がライブビートを知ったのは高田渡さんが出たときで〜と話していたが、私はまさにその当時の放送で渡さんを知った。まあそのころは毎週聞き、また毎週MDに録音していたころで、もうだいたい知らない人出てくるけどそれを聞くのが楽しい楽しい今から思い返すとなんだかまるで幸せのような時代。なぜ思い返すとなるとそんなふうに幸せににじみだすんだろう。私もそんなにじみだすお年頃になったんだなあ。まあそのときは、へえ〜こんな人がいるのか〜というかんじで、その後キセルが渡さんの曲をカバーしていたから自然と知っていって、去年のカバーアルバムでもまたカバーしていたからやっぱりキセルにとって渡さんは大きいんだなあと思っていた。ライブでもやっぱりやるし、去年の野音でもライブ後に会場にかかってたのは渡さんの自衛隊に入ろうだったような。8月30日だったからなあ。


漣さんもおおはたさんもハンバートハンバートも見るのは初めてだった。しかし、みなみなさん、とてもとてもすばらしくって、演奏も歌声も息をのんだまますうっと吸いこまれて聞きいってしまう、こころがつかまれて、ぽおっと恋するみたいに聞きいってしまうようなそんなん。わあーっという小さな驚きがあったかと思うと、もう次の瞬間からは私はただちょこんと座って歌う人たちに見とれている。それはやっぱそのときそのときだけ恋しているようなもんなんだろうなあと思う。むかし、好きだ、という映画で撮影中に宮崎あおいちゃんが瑛太にほんとうにドキドキして恋をしていような状態だったみたいな話があった気がするけどなんかでもそうゆうのも遠くない話というか、その話好きでだから覚えているんだけど。

はじまりから数曲、短い曲もあわせて、漣さんが一人で歌う。ギターは三本あって、ほんとうにどれもきれいな音がなるもんだ。そして声は渡さんに似ているのかなと思う。私はこの会場の中でもぜんぜん渡さんのことを知らない人間だけど、それでも、死んだ父親の歌を息子がうたう、という場面に自分がいること、遭遇していることはなにか特別のことのように思えた。お客さんは私と同じくらいの20代か30代かみたいな人もちらほらはいるけど多くはもうちょっと上の40〜60代くらいの人たちで、きっと渡さんを見てきた人たちなんだろうなあと思うと、またその人たちには違う思いが各々わき起こっているものなんだろうなあと思い、それはどんなものなのかなあと想像したくなる。
そして最初のゲストはおおはたさん。オルケスタリブレとやっているのは知っていたものの結局ぜんぜん見に行っておらず。漣さんとは2人で一緒に渡さんの曲をたくさんライブでやっているらしい。やわらかーな歌声とギターだけど、メリハリがあってうねりがあって。2人のギターの息のあう重なりが軽やかできらきらしていて、音楽しているのがとても楽しそうだと思う。
2曲やったあと、また漣さんが一人にもどる。漣さんはトークとそこから続く曲へのつなぎがうまくって、でもぜんぜんそれも作意がなく自然体のようにやっているのでするするするする曲が歌が流れていく。心地よすぎちゃう贅沢じゃなかろうか。なかには赤城乳業の話もあり、なんでも渡さんの値上げという曲をCMで使いたいという話があった当初は断っていたのだという。でも丁寧な手紙があり、じゃあ作詞の有馬敲さんに判断してもらおうということにしたら、有馬さんが乗り気でオッケーをだしたということになったんだとか。まさかこんなことがあるなんて、という風に笑う漣さんは楽しそうだったな。それから値上げを歌ったんだったと思う。
そして次のゲストはキセル。1月のワンマン以来、3ヶ月ぶりに見る。もうキセルの歌が聞きたくてしょうがなかったんだけど。兄は漣さんからたけちゃんと呼ばれていた。なんかふだんの自分たちのライブのときより兄はずいぶんラフなかんじだなーと思った。ふたりとも舞台袖からでてきてすぐのとこでそれぞれおじぎをちょこん、ちょこんとしているあたりはいつもながらなんだけど。弟はあんま変わらないけどどことなく違う気もしたり。
一曲目には夕焼け。こここれは、作詞が吉野弘で、だからこれは先に詞に出会っていたかなと思うけど、それをまさかキセルが歌うなんて感激ものだ。メインボーカルは兄がとり、弟はノコギリで、最後に2人でうたう、その流れすべてがすばらしかった。まるまるもっていかれてしまうそこ。歌われる情景やおもんばかる心情に2人の声、歌がのって、ちりぢりとしたものがしみだしてくる。もともとこの曲、詩のもつ時間の流れのなかで人の強さと弱さがまざりあってやるせない痛みのような苦さのようなものを感じるのだけどそれを音楽でたどるという時間はより一層豊かな広がりをもってそれらを感じることができた。
次に鮪に鰯。音源とはアレンジ変えてくるかなと思ったらやはり。弟はベース。兄と漣さんがアコギだし、他の人たちとあわせても電気楽器は弟のベースだけで(漣さんおおはたさんはエレアコだけど、質感としては)、ゆえに明らかに目立つし音量も違うものになるわけで、かなり音量ひかえめで弾いてるなっていうか、他の音や声とのバランスをとりながら音を出しているのかなっていうのがひんやり触れられる温度感として鳴っている感じがした。ベースの音が鳴っているのははっきりわかるのに、でもそれはライブハウスで聞く音でなく、隣でなっているみたいな音で、そのひそやかさがこの親密な空間を表しているようだった。

キセルのあとまた漣さんソロ。ほんとうに漣さんのギターと歌にはほろほろと酔いしれてしまう。すたすたと進んでいくから変なまどろみもないしねらいもてらいもない。ただすとんと当たり前のようにギターをさげて、音を鳴らし、歌をのせているみたいだ。そして不思議と客席側にも湿っぽさとか興奮とか一体感みたいな、そうゆう大きな全体のゆさぶりみたいなものがかなりなくて、冷めているようだった。でもそれが悪いわけではなくてただ誰もがすとんと歌を眺めているみたいだった。みんなで眺めて、一人一人の内にそれぞれに思い描くものがある歌を聞いているのかなと思った。みんなただ歌を見ているみたいだった、それがまた心地よかった。

そして最後にハンバートハンバート。これがまたすごくよかったー。すばらしい。ブラザー軒なんて、ほんとうにすごいものを見てしまった、聞いてしまった、なんてなんて体験をしてしまうのかと思えるものだった。今までほとんど触れる機会のないままきてしまったことが惜しいくらいだ。ハンバートハンバートキセルと同じように昔からよく渡さんのカバーをしてきたそうで、それだけですぐ近づけるような気になったりして。歌がこんなにもいろんな人によって歌われることがあるんだということが、大きな発見と驚きとだったように思う。

最後は全員で自転車にのってと、生活の柄をやった。弟が物販でうってますよのTシャツ着てきてて、おっいいの着てるねなんて誰かが言ったりしてそしたら弟がぼそっと「ちょうどいい」と言ったのがひそかに会場の笑いを誘っていたところがおもしろかった。こうゆう時に積極的なのはやっぱり弟らしいかんじだなあと思った。
なんとなく楽しめそうだなくらいの気持ちでチケットとってたんだけど、これがもう思ってた以上にすごくすごくすごく楽しめてしまって、すごく幸せな時間だった。こんな音楽の触れられ方があるんだなあというような、今までになかったような空気を感じられた時間だった。漣さんが渡さんの歌を歌ってるカバーアルバムも早速買って、聞いてる。なんだこれはファンになってしまった。