私も30歳になって、すべてが変わっていくように思える。変わらないものはない、すべては変わる、こたえはハッキリとしているようで曖昧で、誰かはいままでにそれを完全に納得しうる形で示してくれていたりするんだろうか。それがあるならばそれに私は納得できるんだろうか。いつかわかる日がくるんだろうか。
私はそれでもいまだに明日を落としてもという曲に歌に全福の信頼を寄せている。そのこと自体に変わりはないようでいてでもやっぱり変わっている。より信じ、頼っているし、信じこむこと、それをのみ込んで、のみ込むことで自分は生きてきたし生きているんだと結果にすらなりえている。


誰も愛せなくて
愛されないなら
無理して生きてることもない


そうかそうか、そうだねと思う。15のころからそれで安心してきた。それで生きることができる。そうのみ込むことで、ひとりでいることも自分には当然だと思ってきた。ここに帰れば、ここだけが帰れる場所だった。今でもそれは同じなんだと思う。


明日を落としても
誰も拾ってくれないよ
それでいいよ


この歌を聞けばひとりでいられる気がした。この歌があれば。自分にとって一番ささってしまった音楽。出会ってしまった。ここで自分はもう型どられ、石膏で固められてしまったんだ。だから未だにずっとこの曲に子宮にもどるみたいな安らぎを覚えてしまう。もうここで死んでしまいたいんだろう本当は。消えてなくなりたい。

人を好きになるのは、好きでいるのは面白いかもしれないけれどやっぱり自分には向いていないんじゃないか、好きじゃないことなんじゃないかと思える。自分はあきらかに恋愛沙汰が向いていない、性に合わない人間なんだろうと思えるなかで、それは思いたいのかどうか。そうゆうものごとに眼を合わせることに慣れてない、慣れない、なので嫌気が走ってしまう気もする。すべてが気持ち悪くなる。シン・ゴジラの第二形態が気持ち悪いのと変わらない。

アコギで7フレットにカポをして、適当気味に4つのコード、和音をつなげて、別口のふたつの和音を間にはさんでみる。うんうんなにか悪くはないような。自分はこうゆう感じが嫌いではなく、好きというか好ましく思うんだなあと思う。すべてただの真似ごとだが、このような和音をつなげることの面白さに、ほんの少しのささやかな感嘆がもれるみたいに出てしまう。

自分はなぜ生きているかといえば自分で死ぬことができないからで、その話の筋にはつっこみどころと落とし穴がたくさんあるようにも思えるけど自分のなかで一度そう決まってしまったことだ。そのへんを数年かけて答えを出して片づけてしまってから、もう、あまり、自分に問いかけることはなくなってきたのだと思う。もう、問いは、意味がなくなってしまった。そのことが時々かなしく思えたりするから滑稽だと思う。愚かで、脱力する。それでもできるならはやく死にたいと思う。思う自分がいる。それは軽々しい。でも、そう思うと、息抜きみたいにホッとするんだ。はやく死にたいと吐き出る自分はからっぽで、酸素が頭からぬけていくようで、そうなんだよねと安心してしまうんだ。自分は死んでいたい。