液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

先月の新木場サンセットでスピッツを見てからというのもスピッツすごいな熱にうかされつつあり、そういえばもらったスピッツバンドスコアがあったではないかと引っ張り出してみた。ふむふむどれどれ知っている曲でもやってみよう、ていうか私まともなギター譜を見るのははじめてではないか、今までずっとネットの耳コピ情報、自分の耳コピだけでやってきているから、練習本以外の曲の譜面というのははじめて見たのだった。慣れれば見るのは苦でないがバンドスコアなのでめくるのが大変だな。

とりあえずyoutubeで原曲聞きながらやっていく。これが、おもしろい。っていうか私スピッツの曲それなりに知ってるではないか、けっこう、シングル切られてる曲たちはひととおりまあ知っているみたいだ。スピッツの音源を買ったり借りたりさえしたことないはずなのに、それでも一番の歌とサビはもうおおよそ口ずさめるし、ギターのリズム感だってもう体が覚えてますくらいにわかってしまう。なんていうことだと軽く驚嘆できる。

でもそうなんだった、私は小中学生のころ、特別でもなくふつうに民放の音楽番組を見たり、ドラマやCMを見ていたんだからそこで十分スピッツを聞いていたんだった。当たり前のように享受していたんだった。そのことにこのようにして明らさまに気づく機会がくるとは驚愕だ。

考えてみたら夢じゃないという曲が特に好きだと思っていたことを思い出せる。なんか島っぽいイメージさえ付随している。なんだろうこれ。でも、ドラマの主題歌だったから特に繰り返して聞いて好きだと思っていたんだろう。もうそんなことすっかりすっかり忘れていたのに、ひょっこり顔を出すものだ。記憶の引き出しは健全だった。

しかしスピッツの曲はやってみるとかなり楽しい。知ってる曲だからすぐはいっていけるし、なによりキーが歌いやすい。なんせシロップばかりやっているからそりゃそうだ。そしてコードがたくさん出てくる。よってよりシロップの曲がどうできているかがわかるという、おおおおお、音楽はすごいなと、音楽以外でもなんでもそうだろうがそのものだけをやっていてもわかりきれるわけではなく、他を、外へいくことで見えてくるものがあるということ、まあそれはすこしはシロップ以外もやってわかっていたけど、スピッツという自分が幼い頃から知っている有名な楽曲たちと比較するというのはかなり歴然としたものを思い知る材料であると思う。

シロップの五十嵐さんの少ないコードの繰り返しでできた曲、そこに肉づけされていくベースとドラム、それによって立ち上がるシロップの楽曲、その方法論は、やっぱり、おもしろいなー。今さらといえば今さらすぎるんだけど、自分が好きになった音楽はこうゆうことなんだと知るのはすごくおもしろい。ギターはじめてほんとうによかった。人生が違う。うれしい。今ごろになってようやく五十嵐さんが楽曲について言ってきていたことがわかるようになるなんて、笑ってしまうけど、でも昔から自分はなんでこれが好きなんだろうと思ってきて、その現実に具体的なものごとの仕組みを知れてそれでだからそうゆうことかとはならないけど、でもこうゆうものが好きなんだと、こうなっているものに私は惹かれてきたんだとわかることができてうれしい。

しかしギターはきれいに、うまく、弾くというのはやっぱり別次元の話でもあり、コードを押さえて弦をはじけば音は出るが、気持ちのいい心地のいい音を鳴らすというのは大変なことなんだと思う。なかなか毎日弾いたりもできないで、どうしても久しぶりが続くともういつまでたっても下手なままだから、どうにか少しでも上手くなりたいものなんだけどなあ。

音楽をつくっている人たちの才能に惚れてしまう。夏休みがおわる。今年はけっこう長めで、なんだか、10代の頃を思い出すようだった。その頃は毎日がこんなだった気がするななんて、なんか、まぶしい。もう永遠に現れたりしないその頃はまぶしい。自分が何者でもないことさえ知らず、何者にでもなりえたころ。何も知らない。ほんとうにあの頃ははじめて出会うものがどれも新鮮で、鮮烈で、みずみずしかった。それを感じることができる自分がみずみずしかった。んだと今なら思う。それでいてなんでもすぐ知った、得た気になりたかった。こわいものはあるようでいてなかったんだろうな。それらはひっくるめて興味深く、拒否されないものだった。いやまあ自分が何者でもないことは知っていた、気づいていたんだけど、そんなあやふやななかを立っていられたのは求め続けていたからだろうか。