自分は大学を出たあとの一番つらかった時、誰にも助けてなんてもらえなかったと思っている。助けを求めることなんてできなかった。そうゆう能力はなかった。それはまあしょうがないことでしかない。結局誰かが誰かを助けたり、救うなんてこと、直接的にはできないんだと思う。物理的に可能でも精神的には無理なんだろうと思っているのは自分の実際の経験上のところだと思う。誰も助けてくれなかった。それは自分が悪いだけだった。ぜんぶ自分の選択の結果だ。そのような人間になっていたのは自分自身だ。
そのうえでやっぱり誰にも助けてもらえなかったと私がこたえを出していることは、愚かなことのようにも思える。独りよがりの自惚れだ。それがいいとか悪いとかでなくて実際そうだったと、そうなってしまったと、だから私はそれで数年間を無駄にしたと思っている。自分はそうすることでしか生きられなかったかもしれないけど、それにしたって20代の前半から半ばを私はなくした。
喪失したこと自体はもう何にも埋められない。そこでそのまま死んでしまえればよかったのかもしれないし、明日死ぬのかもしれないし、この先まだしばらく生きるのかもしれないけど、その喪失は永遠だ。
誰も助けてくれないと思っていた。誰かに手をさしのべてほしかった。でも自分はさしのべてもらえるような人間ではなかった。それなのに死なない自分が憎かった。自分を殺したくてしょうがなかった。自分が生きていることを許せないことは苦しかった。それらの苦しさを結局は自分で時間をかけて解消、昇華させていくしかなかった。その作業にあたって家があり、両親がいて、自分が働かなくても平気であるという生きる素地が用意されていたそれだけでもずいぶん恵まれていたと思う。それでも、それなのに満たされず不満でしかない自分は相当醜かったはずだ。どんな姿形をしていたのだろう。どんな顔を。
人の孤独を感じるこころには、人はどんなに近づこうとしたって触れられない。だけど、だから、そのためには努力をするしかないと思う。無理をわかっていて、何かをしようとすることしかできない。限界がある。でも、その限界を越えていけるのではないか、そんな夢をなぜみてしまおうとするんだろう。私は自分が誰にも助けてもらえなんてしなかったから、自分の親しい人たちには同じ思いをさせてはならないと思う。だから、自分がしてほしかったことを、人にはなるべく与える配慮、気くばりをするべきだと思うようになっている。でも、それはやっぱり自分が見たいだけの夢なのではないか。自分の自己実現になってしまうのではないか。自分が気持ち悪い。なぜ自分が生きているのかわからなくなる。