22-23にかけて大阪へ行った。正確には、維新派の最後の作品『アマハラ』を見るために奈良へ行くことにしたから、ならば大阪に泊まることにして大学時代のだれかしらに会ってこようということにした。さて誰に会いに行こうかと考えたとき、会いたい人たちはいた。とりあえずさかのぼってみると最後に行ったのは4年前だ、5年前かと思ってたけどちがう4年前だったのか、そうかそうか、それならなんか納得だ、5年もったったかなあ?そうかなあ?でもそうかな?そうなんだろうと思っていたのだった。やっぱそんなんは間違いだったのだ。

その4年前とはぜんぜん違う人たちに会おうと、なんていうかすでにもう4年前とはいろいろと、自分ではない人たちの状況や環境が変わったのだということを、これは指し示しているよなあと思うと感慨深い。維新派のチケットは先行でとった、8月に。そのあと新幹線と宿を探し、会いたいと思っていた大学時代の同級生の男の子2人に連絡をとってみた。もうなんかすごい緊張しながら。2人とも卒業後わざわざ連絡をとるほどの仲ではない、つまり在学中もわざわざそれはなく学校で会う仲、でも私はずっと気になっていた、会いたかった人たちだと思う。2人とも私には興味深く、近づきたくて近づけないところがあった。シャイであった。連絡でもなんでもとりたいけど、そこになにか邪魔がある。できない何かがある。するほどのものはあるのか?という謎かけか。

けれどもう30になったせいかおかげか、恥もあるようでないようなもの。断られたらそのときはそのときだという気持ちで連絡を取ったら2人とも気軽にオーケーがでた。ほっとしたのと同時に、でも、よほどの理由がなければ断られることはないんじゃないだろうかという信頼をよせる気持ちだってきっとあったのだ。かすかかもしれないけど、まだ、どうにか、つながれる可能性のひもを私はもっていた。それを相手も持ってくれているかどうかは、聞いてみないとわからなかった。

22日は13時頃に新大阪に到着、乗り換えをして西ノ京駅へ。ここに着くまで驚くことと懐かしいことと、いろんなことが頭をめぐり心をよぎり風景に見とれた。大阪駅はすっかりきれいになっていて、環状線に乗り換えるついでにトイレに行ったがこんな改札口あったんだっけ?みたいな、あれここはいったいどこなんだろうみたいな。しかし環状線、乗ったのは大和路快速線だったけど、窓から見える風景や心地は変わらないようだった。大阪駅だけがらっと変わって、あとはもうひとつひとつの駅がしみのように残っていた。なつかしいっていうんでもなく、ああそうそうこんな感じだったなあということが心地よくて。ぽんぽんと続く駅。いつもこのぽんぽんとしたテンポ、リズムにのって天王寺へ帰るのだった。

鶴橋でおりて近鉄線へ乗り換え。大阪はやっぱり東京に比べたら小さくて人も少ない。その感じがなんでか心地よい、この心地よさみたいなものはいったいなんだろう?もうずっと離れていた空気なのに不思議とそこにすっと入り込めてしまう。それはべつにそもそもたいして変わらないことなのかもしれない。東京とは、関東とはちがうところ、でも知っているところ。西ノ京駅でおりて、唐招提寺へ向かう。本当は法隆寺かならまちの方へ行くことを考えていたのに、やっぱり移動時間や距離を考えるとどうなんだろうと二日前になって思えてきて急遽変更した。なんとなくなぜか学生時代から奈良は好きなので、唐招提寺もふと良さそうだなと思えた、それだけ。行ってみたらなんだかとてもよかった。



唐招提寺の敷地の一番奥の方にあるたぶん鑑真の眠ってるところと思われる空間はすごくすごくよくできていて、ここだけはっきりとくっきりと世界が変わる空気の違いが感じられた。そしてそれは人の手によりつくられ守られているものなんだなあということが妙に意識にあがって感じられた。なんていうかたぶんすごく大切にされている空間の気配を感じるなかに、行きすぎのない抑制みたいな例えばよくできた美しさは求めてはいないみたいな、まあ唐招提寺全体にそうゆう息が流れていると思うけど特にここにはそうゆうものが感じられたのかなあと思う。
途中で雨がぽつぽつ降ってきてしばし雨宿りしていたら、やんできた。なんか、しとしと雨のなかをここで座っているというそれだけで神聖なかんじ、かるいそんな感じがして、みんな思い思いにこの広い敷地を歩いているのを見ながらただ目の前をぼーっと見たり人の話に耳傾けたりして、ここにしかない時間だなあという感じがした。

駅に戻る道を歩いていて世界遺産のお寺があるのと同時に人の暮らしが広がってもいるこの西ノ京駅はなんだかよかった。これが奈良なのか、ここが奈良なのか、などと思いながら歩いた。考えてみたら奈良駅のほうは商店街や奈良公園東大寺春日大社にならまちなどあって奈良のふつうの暮らしがある町というのは今まであまり見たこともなかったのかもしれない。そして帰りで気づいたがこの西ノ京駅は大学のあった貴志駅にそっくりだった。おなじ近鉄線だからとはいえ、階段を下ってからの改札、切符売り場、駅員室、表示板、そしてまた階段を上がってホームに着く、更にホームにはスポーツ新聞の自販機があって、帰りが一緒になった先生がこれを利用しているのをよく見たなあと思ったり、おおこれはすごいという揺さぶりにひとりがんがんかかる。近鉄線にきゅんきゅんしまくるこの感じは卒業から8年という歳月によるものなんだろうか。誰かと帰った帰り道のことなどがよく思い出された。

そして大和西大寺駅でおりて、平城京跡へむかう。唐招提寺ではぱらぱら雨が降っていたが予報ではくもりだったから雨具は一切持ってきてなくて、まあどうにかなるだろうと買い足すこともなくきてしまった。でも天気はそのままもったのでラッキーだった。平城京跡は4年前にも来ているがそのときはどこかからレンタサイクルでいったはず。よく覚えてないのが情けない。歩くと20分ほどはかかった。相変わらずなにもないところ、跡だなあ。しかしその中を走る近鉄線と踏切の音、走る音、遠くからひびいてくるその音がこの広い空間を感じさせてもくれる。よくわからないけど昔ここにあったものやいた人々と今が一緒くたになって自分もその空気にまざりあう気分になる。歩き続けるとようやくにぎやかな方面が見えてきた。

屋台村は独特の雰囲気だなあと思う。ここだけ時代がちょっとちがうんじゃないかと錯覚するような、それほどすでに出来上がっているし、ずっと前からここにある場所みたいだと思う。みんな好き勝手に食べたり飲んだり談笑したり、一種の自由のようなものがある。これってやっぱ維新派ならでは、大阪の人たちならではの空気なのかなあと思える。ずたぼろの雰囲気はテレビで見る戦後の闇市みたいだと思う。出てくる食べ物もいる人も現代人だけど。フェスとかイベントの感じと似ているんだけどぜんぜんちがう。クレープを食べてパンフレットを買って、開場したのでなかへ入る。前から5列目のまんなからへん、おおなかなかいい席だった。防寒の用意をしつつ陽が暮れていくのをぼうっと目にしている。

17:15ぴったりくらいにはじまる。白塗りの少年がひとり舞台に出てくる、それがスタート。私はこのはじまりが一番涙がこみあがってくるようだった。10年前にはじめて維新派を見たときもそうだったと日記に書いてあった。それを読んでそうだったなあと思った、だから私は知っていた。でもそうか、やっぱり私はここで涙するんだなとわかった。白い人に光があたる、そのことがまぶしくて、その光に泣いてしまうのだ。10年前にはじめて維新派を見にいったときというのは、精神的にかなり下降していて私はきっとすごく何かを求めていた。助けてくれる、救ってくれるなにかなにかはないのかと、どこにそれはあるのかと必死で求めていたように思う。そんななかで見たnostalgiaという作品。驚きだった。このような世界もあることを知った。すくなからず救われた。打ちのめされて酔いがまわるようでもあった。光というものをこんなふうに、人工的な光をこんなにも生々しく感じることはそうそうないのだ、他にない。維新派の作品はそのあと3か4作品見ている。それくらいでも自分が思う維新派らしさというものがすでにある、持っているんだということにこのあと見ていて気づかされる。

ラストのことは少し知ってしまっていた。それでももちろん予想していたものとは違った。おーい、おーいと呼ぶその声たちは観客席の私たちを包み込み、とびこえて、もっともっと向こうの向こうを見ていた。向こうについて、切実に思いを寄せて、抱きしめに行こうとしている。その声に包まれたこと、それは特別だったなあ。あんな風に真正面の舞台に立つ人たちが自分を超えた先の向こうにたいして、その場に立ちながらも向こうへ行ってしまうようなほどに呼びかけをしていることに胸を締めつけられた。ステージのむこうに黄金にかがやく光があった。

アマハラを見ていて終始あたまに上っていたのは、松本さんが亡くなられたあと、いくら前作をベースにしていて構想も松本さんによって残されていたとはいえ、それを残った役者、スタッフで補完して作り上げたのだということ。そこには一体どんな思いが動き交わされるんだろうか。どんな思いでこの人たちはこの作品を作り上げているんだろうということ。松本さんが残していったもの、それを各自で、みんなで受け止めて、維新派としての最後の作品として立ち上がらせる。それはなんだかあまりにも大きくて大きくて、亡くなる人と残された人、その間にあるやりとり、まじわり、そんな目に見えないものの存在をたよりにまた私も想像してここに来ているんだなあと思った。維新派は大学3回だった二十歳の私にとって、鮮烈だった。そのことに感謝したい。最後を見ることができてよかった。

そういえば始まる前に屋台村で内橋さんがいるなーと思ったら、な、隣で喋ってるのは山本さんではないか。うおお、まさか奈良で目撃することになるとは、なんともなんとも。なんか変な感じがした。まあいつも東京で見てるから、東京で見る分にはふつうなんだろうけど。内橋さんはギターも生弾きしてたんだということに最後のカーテンコールのときわかった。ギターさげてたから。ああいい音してるなあと思ったらそうかギターも生弾きだったのか、やっぱそれだけでなにか変わってしまうんだろうと納得した。




終わってから急ぎ足で駅へ戻る。道は真っ暗だ。でもやっぱりそのなかを電車の音が走っている。そして近鉄線に乗って大阪難波駅へ。大阪難波はたぶん使ったことなかったと思うけど。大学時代の同級生のtくんがやっているギャラリーへ向かう。本当は20時までのところを事前にがんばって20時半ころ到着になりそうなんだけどと伝えたら開けててくれるというのでなんとか迷わないように必死に地図とにらめっこしてたどり着いた。ほぼ8年ぶり、どんな風に喋れるだろうかなんて考えてもしょうもないことだけど、どんなだろうということはつい思うことで、でも、会えばそのままむこうも私も変わらぬ声をして体をしていた。はじめに出した声、そのやりとりだけで、それは安心した。ギャラリーを見せてもらって、よくは知らなかったことなどを教えてもらう。勝手に認識していた点と実際の違いなど。しかしなんか変わらないなあと思ってちょっと内心ほっとして嬉しくなるようなところがある。

それから近くの鳥取料理の飲み屋さんへ行く。21時くらいからだったか飲み始めて結局26時くらいまで喋っていたんだろうか。よくわからない。よくわかんないけど色んなことを喋った。お互い喋りたいことはたくさんあったんだろうか。大阪に着いてから、彼や彼とのことをぐるぐる思い考えたりしていた。そしたら彼もそれは同じだったらしい。大学時代の自分のことや、まわりのこと、そのなかでの関係性のことなど。昔にも聞いた話、思い出す話、はじめて聞く話、この8年にあいだにあったことなど。喋っていると、ああそうだなこんな感じだったなあみたいな手応えがわいてくる。

誰かとのあいだがら、関係性は、他の誰かと同じではありえないんだろう。誰かと自分の間にはそこに固有のものしかない。そのことが殊更感じられた。誰かといっしょの時間を過ごすこと、持つこと、そのなかでもこんな風に話ができる人というのはべつにたくさんあるわけじゃないんだろうと思うと、もっともっとこんな風に話せる時間を持っていられたらよかったのかなあなんて、過ぎてしまった時間に対してつい違う選択肢をできたんじゃないかと想像してしまうところに自分が年をとったことをつくづく感じるんだけど。

私は私で自分は少しは変わったと思う。その点はだいたいみんなもそうだと思う。大学で一緒だった人たちは、そのあとみんなバラバラになって、ばらばらなところでばらばらに生きて、それなのにみんなまた似ていたりするからおかしい。それはみんな同じ人間だからなんだろうか。似てるというのは、みんな生きてるから、生きてる分だけ生きてく術を身につけてきているっていうことになっちゃうのかな。人を傷つけることも優しくすることも、何かを選択して生きていくことを選んでる。それだけみんなたくましくなっている。みんなどうにかこうにか生きているんだなあと思う。それを、十代のうちに知り合った人たちだから、不安と恐れをかかえて何者かになりたくてなれるだろうかどうだろうかと集っていた人たちだから、そこからのそれぞれのあゆみ方みたいなものはそのままその人の言動によく現れているなあっていうのがよく見える気がして。それが男も女もみんな特別にいとおしく思えるゆえんかなと思う。

追憶、追走。当時に比べたら、今はなんて乾いているんだろうと思う。それだけ年月が経ったということなのかな。こんな風に私たちは年月を経るということなのか。それでも変わらないところもいっぱいある。変わったところもある。そのあいだを今はまださまよっていたい。そのどちらをもに触れていたい。でもやっぱりもうみんなばらばらで、みんながみんな近くにいることなんてできないのだと思うと、あの時はほんの一瞬、そのときにしかなかったんだという事に胸がつまる。

酔ってくると同じ発言を繰り返したりするところが同じゼミでもあったのでそのゼミの先生に似てるなと思った。先生の話もいろいろしたような。今になってこそできる話があっておもしろい。笑っちゃう。こどもだったんだなああの頃は。10年後にはこの今さえもこどもに見えるのか、もうそれはないのか。私が40でtくんが42になったら、ようは10年後、互いに結婚してなかったらーっていうよくある話のそれをしてきたのですごく笑った。そんな話をわたしたちはするようになったのねと思うと、おかしくておかしくてたまらないし、うれしいなあと思った。彼と私はぜんぜん違う人間だと思う。でもなぜかところどころで出発点が同じとらえかたをしているところもあって、でもそのあとの表現というか出力の仕方がぜんぜん違うっていう感じ。そんな考え方してきたの、ずいぶんひねくれてるなと思っちゃうけどいやはたしてそれ私ひとのこと言える?とも思わされるところがある。極端に振れすぎている。

彼はとにかく自分をさらけ出さないと気がすまないのかもしれない。許せなくて。そんなふうにして戦っているのは変わらないなあ。その真面目でマメなところが私は好きだけどなあ。本人はそんなこと言われても嫌だろうが。何かをわかりあえるなんて思わない。でもそのわかりあえないことを確認しあうようなこと。それを誠実にあけっぴろげに受け止めてくれる間柄は持てるかもしれない。そこらへん喋っててすがすがしくてありがたいと思う。ここには書けない話をたくさんした。そんな話ばかりになってしまう。

朝になってなんばで別れて、梅田へ向かう11時。梅田は昔から限定した方向へならなんとなくいけるくらいまでにはなってたはずだけど、やっぱりすっかりわからなくなってまた地図とにらめっこ。でも昔よりにらめっこさえ慎重に丁寧にするようになったのだった。なんとか待ち合わせ場所の梅田芸術劇場に到着。相手は遅れるとのこと。よかった、私もすでに3分遅刻していたから。しかし懐かしいけど変わってない感じ。維新派を10年前に見たのがちょうどここだったので自分で待ち合わせ場所を設定しておきながらも奇遇だなあと思う。しばらくしてrくんがきた。彼とは卒業式ぶりだから、もう8年半くらいになる。うーん、変わってない、あいかわらず細い。開口一番に大人っぽくなったなあと言われる。そうか?そうかな?まあありがたくいただく。

あるいて中津のカンテへ行く。カレーを食べる。はたまた彼ともいったいどんな風に喋れるだろうかとわくわくとはらはらだった。わからない、自分は彼とどんな風に喋ったりしていたのか、tくんと比べたらぜんぜんわからないと思いつつ、まあ軽い気持ちでいこうときめていた。やっぱり彼にもまた大人になったんだなあみたいな、少しの余裕を感じ、それが鏡となって自分もそうだと感じられるのかもしれない。大学生の頃とは何かが違くてなにもかも違う、でも、あの頃とおなじ目をしているとでもいうんだろうか。まるではじめて出会い、はじめて一緒に歩いているみたいな感じもある。でも、やっぱりこの安心感は昔から知っている人だからなんだ。その距離感。それを今に改めて測りあっていたのかな。

自分のことや他の誰かのことを色々喋って、この8年間はどうだったかをさぐってさぐって、ああやっぱりこの人だ変わらないこの人で私のことを知ってくれているこの人なんだと思えてようやく、みたいなところはあったかもしれない。学生の頃に比べたら私はずいぶん自分をさらけ出せるようになったと思うんだけどな。素直になることを少しは覚えたのだ。警戒するのではなく、人に近づくことを自分で許せるようになった。それはみんな、それぞれにそうゆうものがあるんじゃないのかな。それを相手に感じ、そしてやっぱりそれが鏡になって自分にかえってくる感じがするんだけど、なんか、そのことがすごく嬉しくなるのはなぜだろう。

食べ終えてノープランすぎてどうしようかとなって、彼の地元である神戸へ行くことにした。時間はそんなにないけど、rくんと神戸に行く、もうそれだけでじゅうぶん夢みたいだなと思えた。阪急電車にのって、隣に座って、喋ったり喋らなかったりしたあの時間がなんかすごいやばかったな今思えば。あれは夢のようだった、、、やばいくらいにきらきらとすべては輝いてスモークがかってお花が舞っていたな。30になってちょっと夢がかなったみたいだった。

彼は私の一目惚れした人だったりする。大学入学してすぐのころ、彼は私がなりたい男の子像そのもののようだった。というか、べつに具体的になんてなかったものを彼が具現化してくれた、してくれてしまっていたのだった。その衝撃たるや、がつがつにがつーんとやられたのだった。生涯における一目惚れは彼だけなのか、どうか。一目惚れだけあって外見がみごとだったのだけど外見だけじゃなく、中身までお見事だったので私は戸惑っていた。そんな学生時代もあったものだ。音楽が好きで音楽が詳しく哲学やらなんやらも手を伸ばせる水瓶座、自分にはないもの自分とはかけはなれた人であること、その手の届かなさが憧れになった。

彼は昔はもうちょいとっつきにくさもあった気がするけど、ずいぶんやわらかくなった気がした。笑顔で話をしてくれる。カフェで彼はアイスコーヒー系をたのみ、私は期間限定らしいりんごジュースを紅茶で割ったみたいなものを頼んだ。そしたらコーヒーとか普段飲む?と聞くから外では飲むよー家では紅茶だけどと言ったら、さっきも紅茶飲んでたやんみたいに言われて、まあ紅茶大好きってのはあるけど私りんご好きだからりんごのにひかれちゃってと言ったら笑いながらもりんごうまいよなーと言ったその顔が本気でりんごうまいよなーと言ってて、りんごのうまさに同意してくれる人もそうそういないので密かに感動してしまう。みんなあまり果物とか食べないみたいだから、なかなかりんごが好きで話をしても通じないことが多い。なのでめちゃくちゃ嬉しかった。すごいどうでもいいような会話なのにすごい感動しちゃう。ほれた弱みか。

そのあとは音楽の話をいろいろした。私が芳垣さんや菊地さんの話をしていたことを覚えていてくれている。う、うれしい。山本さんのアコギのインストあれいいねって言ってて、それはLightsとpalmだねってはなしで、うおおお私もそれ大好きだから!と思う。だいたい音楽の話は通じるのだったということに別れてから気づいた。やるなあ。

ジャズの話になって、ジャズはまだようわからんという感じで同意した。特に、ジャズは何を(曲のなかでのどこ、なにをという意味)聞いていいかよくわからないという点に合致した。でも彼は昔から音楽批評を読むのが好きで、下地にそうゆう理解があって、ロックの歴史をふまえてき聞いてきてという基礎知識やらがあって非常に男性的な感じがあるので私のわからないとはまた筋が違うんだろう。理論や言葉はすごく男性的で私はいまいり理解がきかないが、それをぜんぶ体感でカバーしているイメージ。そんな話もしたりして。音楽が、好きなんだなあというのが感じられた。変わってないっていうか、イメージ通り。知っているようで知れなかった面でもあると思う。それなりに聞いているみたいだけど、ジャズのドヤ顔がいややねんと言っていたのがとても笑った。わかるわかる、ドヤ顔感あるねと思って。そんな時間がたのしくて、過ぎ去ってしまうと切ない色になり寂しくなるのはなぜなんだろ。もっともっとそんな時間を一緒にいれたならなんて、欲が出てきてしまう。叶わないと知っているから。

そして坂を下って三宮の駅で別れた。改札に入る別れ際、突然、実は卒業後1〜2年は大変やったんけどなというようなことを言いだしたので驚く。でも驚くのと同時、そうなんだとすっと受け入れる自分がいた。すぐに私もだよー、私なんて25,6までかかったけどと返す。もうほんとすぐ電車の時間があったし周りもうるさいしそこから詳しい話は一切できなかったけど、でも、その短いやりとりだけでもお互いに納得したような気がした。すぐに、そっか、rくんもだったんだ、そうだよねと思う自分がいた。

みんな、ただじゃ生きていない。それぞれに苦しさや痛みと出会って、それからの今ここで出会っている。だから今会えている。今私たちはもう一度こうやって会うことができた。それが奇跡で、偶然だと思う。みんな自分を抱えて生きている、抱えている以上その姿はたのもしくなり、たくましくなったりするんだろう、しぜんと。それがすこしずつ大人になるっていうことなのかな。

私たちはみんな大人になっていくのかな。でもそれは一人じゃなかった。みんなそれぞれにそうだったんだねと思うと私はみんなを抱きしめたくなるし、また、20代のころの自分をも抱きしめてあげられる気が少ししたんだ。すこしは、触れられるような。それはもう私であって私じゃないみたいな、切り離しておかないといられなくて、遠くにつき放して、でも離せない手はあって、彼らに自分が見えたから距離感が変わったのかもしれない手ごたえ。

私は彼らに自分を重ねあわせられるような気がした。彼らに自分を見るというような、彼らの姿と自分の姿がそこにだぶってみえた。そんな感覚は初めてだけどでもそうだった。彼らは合わせ鏡みたいになって彼らに自分が見えてくるのだった。それもまた驚き。なぜだろう、なぜそんなものがみえたんだろう。

彼らのことが私は好きだった。羨ましくて憧れてもいた。私も同じにそうなりたかった。女であることがひどくひどく邪魔ででも取り外せない。あきらめるしかなかった。敗北を認めるしかなかった。それでも、女でも勝つことを、はりあうことを一生懸命考えていた。でも、なんか笑っちゃう。そんなかれらにまるで自分が重なって見えるようだなんて。男と女、それだけの違いが違いに絶対越えられない壁を思ってた。一緒じゃないんだってくくってた。それはべつに今も変わらないけれど、でも、一緒じゃないなんてことないのかなって、姿形をなぞりあうことくらいはゆるやかに許されたりするのかって、今になってそんなこと、起こるんだなあ。

前から好きだった彼らのことが、改めて好きになった。彼らの笑顔は前からあんなにやわらかかったんだろうか。こんな風に笑いあえるなんて、思ってもいなかった。みんなもうぞれぞれに前を向いているんだなあ。不安を抱えて。ほっとしちゃったんだよなあ。私だけじゃなかったんだなあって。ほっとさせてくれた。大学生活はたったの4年間しかなくて、そのなかでもかれらと喋ったのは、一緒にいたのはわずかな時間だけ。それでもその4年を共有していた。同じ大学の同じ学科ただそれだけで。それから8年も会ってなかった。共有していた時間がついちっぽけに思える。それよりもっと多くの時間が過ぎてしまっていた。でも、その8年の時間のなかに決して彼らがいなかったわけじゃなかったんだ。そうだ、そうだったんだ、そうだよ、ずっと自分のなかにいたじゃないか。わかんないけど、彼らにとっても同じようにそうだったかもしれない。ふたりとも、東京行ったときは連絡するよーって言ってくれたし、また私がつぎ来た時はーなんて話もしたんだから、それくらい思わせてもらっても悪くはないかな。そんなことをかみしめてかみしめて抱きしめて、新幹線に乗って帰った。