誰かに甘えたいけど誰にしていいのかわからない。そんなことってある?本当は甘えたくない。それはやり方を知らないからなのかもしれないし。知っている人はきっとわざわざ考えることもないのかもしれないし。したくないのは誰かに自分の本当を本当は知られたくないからかもしれないし、知られたくないのは自分がかっこわるいからかもしれない。自分を自分で言葉で説明しようとするとどうしてもかっこつけてしまうのだ。感情のうわつきのない物分かりのいい立派な人になりたくなってしまう。

こんなときに先生に会いたくなるというのは、先生なら私が言葉でぜんぶ説明しなくたってわかってくれるだろうと思っているからなんだろう。先生なら私の先の先をよんでくれる。私なんかの言ってることの先や裏や表をつるっとよみとってくれる。でもだからって決してそれをあからさまに口に出したりはしない。いつも何を思われているかなんてさっぱりわからない。わからないのに、なぜかわかられてしまっていると私は思っている。

昔の日記を読み返すといかに自分が先生のことを慕っていたかがよくわかる。とんだひねくれを生み出してくれたのは先生の存在のせいなのに、その先生のまえでは私は素直だったように思える。先生のまえでは素直になることが手っ取り早いとどこかいつか学んだったんだろうか。

先生と仲良くなりたかった。先生と距離を縮めたかった。先生に見ていてもらいたかった。先生といるときは緊張したし、こわかった。所詮の学生ながらもそれでも見透かされ評価をくだされることがこわかった。それでも先生とふたりきりになれたときは先生を独占できることの大きな喜びがあった。先生の部屋で、向かいの部屋で、駅でバスで電車で先生と一対一になれることにいつしか無邪気な喜びと安心を得ていったように思う。

先生が謎すぎるので、そこにはまってしまう種類の人たちがいた。みんな先生に惑わされながら、惑わされまいと必死だったのかもしれない。惑わされたいけど、先生の壁はひどく高く厚いので、その壁からはなれたところで惑わされるにすぎず、近づいて惑わしてもらうことは容易ではない。でも、4回生のころはもしかしたら私は壁にいたるまでの靄も草むらも沼のような足もともふんぬふんぬと歩きこえて先生に近づこうとしていたのかもしれない。日記を読み返すとそんな印象をうける。ああ話がそれまくった。誰にあまえたらいいのかわからない、と思うということはあの人やこの人やと誰かを思い浮かべているのだけど、でも、こわいんだろうな。うまくそれができる気もしない。



この電話をしたら私はふられるんだと何度も自分に言い聞かせた。もうそれが、電話をしようと決めたときからわかってしまっていて、確定してしまっていた。なんでだろう、電話するって決まる前まではどこかで淡い期待ももてる気でいれたはずなのに、いざ決意したらポンと桃から割れ出てきたみたいに答えがぜんぶすっぽんぽんに見えてしまった。それを見ないふりはもうできなくなっていた。そうだねそうだね、それは本当は最初からわかっていたよねと自分をなぐさめる術。

最初からわかっていたかもしれないけど、でもそれは自分の想像の範囲内で、相手がある限りそれは自分だけでは答えが出せない。それを相手と対峙してちゃんと答えをだすこと、自分で種まきをしてそれを自ら回収すること、私はその道を選んだのだと思う。わざわざわざわざ、それをする必要を選んだ。ずっとこのままでなんて私はいられなかった。いられるほど崇高でもなく孤高でもなく、俗なただの女だった。

なんで相手の答えがわかっちゃったりするんだろうと思った。人はぜんぶだだもれだ。もっと隠せる機能、スイッチオンでついてろよ、と思う。やめてほしい。相手を見ていればそれはわかってしまうのだった。誰もが誰もの気持ちをわかるのかどうかはわからないけど、私には相手の気持ちが見え透いていたはずだった。もしわからないと感じれば、それは相手もそのままそうだったはず。不定形であること、その定まらなさはきっと都合がいい。わかっていたつもりだけど、それに揺り動かされてしまった。

私は今まで受験やバイト、仕事の面接で受けて落ちたことは二度あって、その二度とも、受けてる最中にああこれはだめだろうなと思えた。それは面接の最中にすでにむこうとこちらの思いがまるで一致してない、ああすれ違った、すれ違いおわったんだと感じられる。それを感じられてしまうことは悲しいと思う。感じられなければいいのにと思う。でも、それは避けられない。

それとまた同じだと思った。この人は私のこと好きにはならない、そうゆう思いは持たないんだろうなと察しないことはできなかった。それはただ伝わってくる。向こうが出している。発している。人はなにかを発しているらしい。それ見えてるよ。むこうは出してないつもりでも絶対出しているのだった。出されてるものを受け取らないわけにもいかず。

むこうの性格や考え方もすでに知ってしまっていた。とは言えなにも知らないとも言える。知らないふりをしていただけかもしれない自分。わからないという闇にすべて投げこんでいたら、悩んでいられる。いやいやでも私やっぱり知ってたじゃん、知ってるじゃん。ただ、それとの向き合い方は自分では導き出せなかった。大阪の友人にわざわざ電話して話をして、彼に話を聞いてもらったのは我ながら最適な選択だったと思う。なぜか、彼と話している最中、ああきっと彼も私がふられることをすでに予想できてしまえているのではないかなと思った。すがすがしくそう感じた。彼の無駄のない指摘が私にはありがたかった。私がこっそり布をかぶせて隠していたところを懐中電灯でほらこれでしょあれでしょうと照らしてくれる。ああそうですねそうですね、そうですと畏れ入る気持ちにほんの少しだけなった。君に相談してほんとうによかった。頭のいい人でありがとう。自分のまぬけさや頭の悪さが露骨にさらけ出されるようでなぜか恥ずかしく申し訳なくなったが、それを通過しなくちゃならなかった気もする。

もうあんなセリフは二度と言いたくない。自分からそんなことは二度と言いたくない。自分で言って、そのあとすぐさま後悔の波がざっぶんやってきた。むこうもむこうだ。私に言われて言うな。でも、そんなんも知っている。そんなずるさも知っていた。変わってない。変わってないところが好きで、変わってないところがサイテーだ。ああでもなんか久々に、なんで、なんでかこんな時に限ってまるで学生のときみたいに、学生のころのように喋っているような雰囲気がして、ふしぎだったし、たのしいし、うれしいし、おだやかだった。あれはなんだったんだろうと思うけど、でも、そうかとも思えた。それは自分がぜんぶ言えたからなのかなと思った。自分がようやくいろんな隠しものをとっぱらって、相手を傷つけるかもとか思って逃げて逃げてでもそれほんとは自分守ってるだけで、なんでも言ったらいいんだ、相手のことだって傷つけたらいいんだ、そういえば学生のころだってそうだった、それができた相手で、それをしあっていて、だから一緒にいられた。一緒にいて楽しいときもあればむかついてイライラしたときもあった。心配したりされたりすることもあった。一番負けたくない相手だった。だから好きになんてなりたくなかった。好きになったら負けだなんて、きっとそんなふうに思っていた。女でありながら女でなんていたくなくて、でもどうしようもなく女。女の自分なんて消し去りたかった。女になんて見られたくなかった。でもきっと先生の前では女であることが勝手ににじみ出てたんだろうなあ。先生が絡むと本当ややこしい。

私のことを本当は嫌いなんじゃないのか、ということはうすうす少し前から感じていたことだということに完全に意識がいったとき、さらにその上の考え方としてじつは嫌いだから傷つけられているんじゃないかという思いがあがったが、いやその考え方って学生の頃に思っていたよね?と思った。それはつい最近発見したことではなく思い出した、とおくから引っ張ってきたような感触があった。もちろんそれだってそれが本当かどうかはわからない。でも、そのような気がするのだ。学生のころにすでに私はあえて傷つけられているのかもと思った、でもそれを受け入れ了承しているのは私なんだった。それは共犯じゃないか。だからべつにそれで相手を責めたいわけでもなく。私はずっと相手が私を好きになるわけはない、言ってるとしたらそれは嘘か虚飾だとずっとそう思ってきた。それは学生時代からそれに間違いはないと断言してきた。なぜ私はそこまでその考えを絶対と信じて覆せなかったのか、というのは大きなひとつの疑問だけど、他にも察する理由はあるけれど、でも好きになられないの下地に嫌われているのではという疑いがあったとすれば考えやすい。考えやすいだけに危うい考え方でもある。

それにしてもなんで急にあんな風に笑いあえた会話をしていたのかはよくわからない。風がふいたみたいだった。電話ごしなのにまるで大学の4階の廊下で横に座って喋ってるみたいだった。よく私はそこで寝ていた。コンクリートの壁と窓と教室のドアの細長さ。風がふいてその風景が現れてはまた消えてしまう。そんな風にする思い出話。もう二度とふかない風かもしれない。もう二度と同じ風景が描かれはしないように。もうなくなってしまった切なさと、ついこないだのことのように話しあえる楽しさ。そのときの会話の営みは今までほかの誰ともしたことのないあやとりのようだった。昔話をしてもどこかそれは過去の閉塞感があって、その時だけ紐を解いてひらき終えたら過去としてまた閉じられてしまうのがふつうだ。すでにもう古い光が射しているものだ。でもそれとは違った。自分がそっちへ、むこうへいってしまうような感覚に近かったのかもしれない。私たちは今とおなじように昔そこにいた。昔とおなじように今笑っている。そのことがあまりに自然に現れたので驚きながらもそこに浸っていたい気になった。でもそれはその時だけ現れた蜃気楼みたいなものだと、その時点で気づいてもいた。だって、わたし今日ふられるために電話したんだもん。それがこんなしあわせな気持ちで終えられるはずはないのだ。ちゃんとふられなきゃいけない。自分でまいた種を自ら回収すること、それが私のすべきことだった。

一度涙がつまったあと、また笑い話をした。何度も電話の向こうの笑い顔がなぜか見えるようだった。笑い方を知っていた。そうだいつもこんな感じでいたんだろう。ああ久しぶりにこんなふうに笑った気がした。でもそんなふうに笑えば笑うほどまた涙がでてきてしまうようだった。生きている時間、もどせない距離、言えなかった言葉、見えなかった信頼、憧れも嫉妬も欲も孤独もややこしいことがこんなに絡みあってもそれでもこんなふうに会ったり電話をすることができるのはみんな生きててこれからも生きるからなんだろう。そんなものぜんぶどうでもいい、それより今がほしいんだよと思う私ははたして滑稽だったんだろうか。先生に教えてもらいたい。そんなことすらも、そんなことないって言ってもらいたいのだ、そんなこと言ったりしない先生を知っているのにも関わらず夢を見たくなるのは自分が嘘でぬりたくられているみたいだ。

私たちはいつもそんなふうに話していたよねという確認ができたことは嬉しかったし心強かった。ああそうだそうだと思い出した。そうゆう関係だった、それがよかった、だからそれ以上というのはやっぱりないのだ。ありえないということなんだろう。それが最適だったんだ。そのことをちゃんとちゃんと自分の手で問うて考えて答えを導き出せた。それはいつかやらないといけなかった。やらないと苦しかったはずだ。やらないと、またこんな風に笑いあえることもなかったかもしれない。また次会ったときは違うかもしれない。でもここ最近自分の中であったなにか違うという感触はもう必要なくなった。

昔、彼と話をしていたころの自分が思い出された。ああそういえば私こんなふうに喋っていたなあ。やさしさもあれば苛立ちも皮肉も顔を露骨にそむけもした。ずっとそのことが私は後ろめたかった。卒業してから、後悔していた。申し訳なかったと思った。でも、もうそんな思いからも解放されたらいいのかもしれない。それをずっと背負ってるわけにもいかなかった。背負って見る夢もあったけど、それはやぶれたり。

私たちは変わったんだか、変わらないんだか、まあ少なくとも彼の言ってることは変わりなく、あいかわらず何言ってんだこいつと私を苛立たせ、泣かせ、傷つけられる。私からしたら君のいってるそれぜんぜん筋通ってないから、と思う。同じだなそれは。なので私も言うのだ。言えばいい。それができるからいい。それができなかったら最初から違う。そう思うとすこしすっきりする。10年分のもやもやがようやく晴れはじめるのかもしれない。

私はずっと信用できなかった。疑っていた。昔の日記に書いてあることが、それが真実だと思った。それもまた今も同じだった。私は彼を信用できず、彼も彼自身を信用できない人だったのではないか。私ははたして彼に信用されていただろうか。信用されたかった。してほしかった。でも私たちはできない間柄だったんだろう。天秤にのるタイミングが違ったのかもしれない。なんでもいい。わかってくれるほどの手は差し伸べられたのに、その手をはなしてしまったのはなぜなんだろう。誰も強くなんてなかった。誰もなにも知らなかった。



まあしかししばしの傷心。どこかに行きたい。とかほんと思うんだなあ。とりあえず先生に会いたくてしょうがないけど先生に会いたいんですがなんてそう簡単に言えることではないからやっかいだ。まあでもどこかに行くことは必要だ。そしてこれからどう生きようということを考えながら考えていない。どこか関東をはなれたところで暮らしたい生活したいとか想像する安易さ。今をぜんぶすてたくなるのだなあ。思いとしては。一人では生きていないので急にひとりになることがとてもこわくなる。自分のむなしさがいやになる。いやになるが否応もない。ならばはやく死んだらいいと思う。生きていることはこわいとも思う。死ぬこともこわいと思う。自分にいつ死が現れるのかを考えるのはよくあること。はやくきてほしいなんて思うのはずるいだろう。他力本願。生きるこわさにどう立ち向えるというんだろ。仕事にいきたくないし、したくない。それでも明日になったら足は向かうんだから、自分は救われているんだと思う。まだ死ぬのは先かもしれないしすぐそこなのかもしれないし。