年もあけたが、なぜ私は去年付き合った人と去年別れたのかについて考えている。そこには、そこ、他者がいる世界によって鏡の私がよく見えてくる気がするのだ。鏡のむこうの私なのか、鏡に写ろうとする私なのか、あれ、どちらの私なのかはよくわからなくなってしまうが。ズレるのだ。鏡という面あわせの互いが。そのズレを私は、さて、どうしたいのかもよくわからないものだが。

別れてからひとつ気づいたことがある。まあほんとは前からうすら気付きはしていたはずだけど。付き合っていた人は人にあわせることを良しとする人だったように思う。自分の意思や主張を出すよりも、相手にあわせたり寄り添ったり、そうゆうことができる人だったと思う。そして、それの延長線といっていいのかどうかわからないけどそれに類似するようにして同じであること、一緒であることをとても良いことであるという風に捉えているのだと感じられた。

例えば何を好きであるとか、どう感じるかについて。それが同じであるもの同士の連帯感や心地よさみたいなものを稀有で特別な関係であるものみたいに喜んでもいるみたいだった。それは確かにそうだ。そこにもちろん喜びはあるものだ。

でも私はそれがどこか違和感だった。同じであること一緒であることを重視しはじめてしまうと、同じでないこと一緒ではないことに対して対応が効かなくなる気がする。人間同士なんて同じでないことのものことの方が圧倒的に多いはずなのに、だ。

2人の間にふたりだけの親密さを見出したいのかなと思った。けれど同じであることなんてそれはささやかな偶然ではないか、と思う。ささやかであることは、とても小さな粒であると思う。ゆえに大事に大事にするものなんだと思う。そこには9のことは違ってもただひとつのことは同じなんだというような、違っていることの前提がある。わかりあわないことの方が、あわないことばかりのなか、あわなくって当然ななか、それだけはなんと同じなんだ!というもの。でも私には違っていることはうやもやにされ、同じであることばかりが並べられクローズアップされているように感じられたのではなかったか。

私は違う意見、考え方でも相手の言ってることを聞ける間柄であればいいと思っている。違って当然であり、しかしそれを互いに発言することができ、聞くこともできれば、そこでよほどの決裂が起こらず一緒にいれるならそれがいいのかなと。男女問わず。それには自分はこう思うと発することができないと成り立たないが。付き合っていた人が自分の意見を言わず私にゆだね、異議をとなえてこないというのは奇妙に思えたしどんどん辛くなっていった。あの辛さは一体なんだったんだろうとも思う。いや実際には少しはあったかもしれない。こんなの全部関係なかった、かな?もうわからないが。