液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

なんとか今年の目標として毎日かならず日記を書くとか、できないものかなあ。設定しようとした時点で自分みたいなものには無理が迫ってきているというきもするが。なんにせよ毎日眠い。まいにちがあるようでない。目の前に。そんなものに対して少しでも抵抗したいのだ。あがかずにいては何もないままで存在してしまう。

土曜日は夕方近くになって銀座の方へ出かけギャラリーをまわる。といっても楽な感じ。本当は品川まで行くべきだったろうに、すべてを寒いことにおしつける。出かけるのは億劫なのだ。一丁目の方から小柳ギャラリーで束芋 flow−wer arrangement を見た。前回の展示も見ていただろうか。壁面に描かれた太くてなめらかな線が圧倒的にいいと思う。爪の描写に自分は目がいっていることに気づく。うっとりする。その爪に喰われてしまいたいような、吸い込まれて消えてしまいそうな。そういえば藤田嗣治の作品でも同じように爪にうっとりしていた自分を思い出した。他の作品は非常に細い線で骨や筋肉から植物が生まれている。骨盤のような骨に紫陽花が咲いているのが良いと思った。皮膚の外ではなく内へともぐっていく、ひらかれた皮膚の先。壁面にはプロジェクションマッピング、落ちる流れるといったイメージは変わらない。

メゾンエルメスグリーンランド 中谷芙ニ子+宇吉郎展。いったらちょうど霧が発生していた。人が消えて行くような、のめりこんでいくようなとらわれ。宇吉郎さんのスライド写真が良かった。写真にはそこが閉じ込められている。奥の部屋の資料展示が興味深い。特に過去の霧の展示、設置の映像は屋外でむくむくと広がり覆っていく世界が異質で自然。古いヴィデオ、フィルム。現象であり、もの。

資生堂ギャラリーでMoving Plants 渡邊耕一展。これは偶然なのかエルメスで見た現象、ものという意味で見事に通じ重なってみえた。入り口でもらうテキストを読みながらすすまないとこのことの進行はわからない。進んだり戻ったりするような感覚。世界のどこかにそれぞれの地になじむようにして進んでいくオオイタドリというハート形のアジア原産の植物。それが19世紀に欧米食にひろまり繁殖している姿を写真で追っている。植物の侵略、ペスト、感染。そこにあったなにかを覆い隠してしまう自然はどこまで自然なのか。知らない線引き。おもしろかった。ドキュメンタリーのような追跡、体感、この世界に何を見えているのか。

ほんとはDOMANIプラスを見に行こうかとも思っていたが寒いし暗いしもう19時だってことで終わり。疲れたくないのか、見たいのか。


そして昨日は毎年恒例の写美で恵比寿映像祭。毎年これやってるころが一年で1番寒いころだよなあと感じる。そしてなぜか母も家にいてもつまらないからとついてきた。そんなに楽しめるかどうかと思いつつ。三越インドカレー

長めの映像作品は母がつらそうだしとはやめにまわす。まあもう一度これたらいいかなと。2階は中央をひらけたスペースとしてとり、壁面に沿ってばらけた小部屋のつくり。ジェームス・リチャーズの部屋はベンチが左右に2台、3人ずつ座れた。右側のベンチに座った。音楽がいいなと思って、そしてわりとテンポよく回転していくのでじっと見ていた。

そうしたら出入り口はさんで左のベンチに座っていた人が立ち上がり、なにか声を発していた。最初はだれのこと?と思ったが二度見したらそれは大学時代の同じゼミの友達だった。彼は今岐阜に住んでいるので、ここで会う想定は一切なかった。会うのは1年以上ぶりだ。っていうか。それでもお互いに驚きと動揺を素直に隠せず発露した。よくぞ気づいたものだ。嬉しさとやるせなさ。私ははたして彼のことをだれかに説明できるだろうか。同期生。それ以上なのか以下なのか。その姿形はもうすっかり昔からよく知っているものとして私に認知させるだけの肌理がある。触れなくても知っている、触れたことのあるその、すぐ、すぐ、すぐそこにいる君。その存在の確認の距離、視線、私は何を感じ取ることができるセンサーだというのか。ああ、もうすべてが疑問形になってしまうよ。

すべてをお互いそれぞれに見終えてから、お茶をすることに。色々と喋る。喋りたいこと、聞いてもらいたいこと、聞きたいこと、彼に対しての自分のモードというものが存在する。まるで学生の頃と変わらず同じように同じような話をしているようで、でもきっと違う。それでも、同じあわいにとびこめた気持ちになる。それは一瞬の煙。

原宿へ移動して初めてきたBLOCK HOUSEで明るい水槽 永田康祐と大岩雄典の展示を見た。あとからわかったが永田さんは以前に山本現代でも見ている。先に大岩さんの映像の作品から見た。いつまでも見知らぬ二人。モノポリーが展示台が倒れこぼれている。ペットボトルの水。向こうに水槽の中にいるような魚。会話を聞いている。途切れる、知らない誰か。水族館の中での回遊のようでもあった。声のない文字の人は誰か?おわらないつづき。聞くことはおぼろげで、なにかを落としてしまう。
永田さんの作品のことをよくわかろうとするのはなにか困難を覚える。立ちはだかりを。こちらとあちらの具体性や行き来の不透明性さなどがうまく整理できない。しかしここで起こっていることの面白さみたいなものにひきつられる感じ。こないだMeCAの展示のキャプション読んでたらなんか笑えてきて、メディアアートのキャプションってなんか笑っちゃうと思って、そのことを思い出したりもした。人が多かった。最終日だったらしい。


それから山手線で東京駅へ向かった。わりと時間があった。なにを話したかな。私の最近の過去の発見についてとか。なんてつまらない話をしたんだろう。こちらを見られるのが嫌で、視線を感じても目を合わせないようにしていた。