一週間前の今日、downyのギターの裕さんが亡くなった。それを知ったのは次の日の火曜日。どう考えても、信じられないという気持ちが頭をよぎる。だって、そんなのうそだ、そんなの、いやだ。自然というには早すぎるほどとっさに、瞬時に、信じられないという言葉が思いが目の前を素早く横切るのは、受け入れたくないという現れなんだろうか。
もうあの4人が立つステージはないのだ。いくらそう思っても、4人が立っていたステージが頭には映る。けれどそれはもう永遠の記憶となってしまい、もう、新しくそのステージを見ることはできないのだ。もう、ない。どうしてもまだ信じられない。あんまりにも早かった。いつかまた絶対に見れるんだって思ってた。見れなくなるなんて、もうないなんて、考えられなかった。だって去年の11月には見たんだもん。ついこないだだ。その空気の中にいて、触れることができた。音の発露としびれと裕さんが確かにいた空気。触れていた感触がまだこんなにもあるのに、その人はもういないなんて、一体どうしたら信じられるというんだろう。
信じられなくて、つらい。そこには大きな裂け目の淵がある。



男と女でなにが違うんだろう。何かは違うんだろう。でもそうしたら女と女も違うし男と男も違っていて、その違いは全員なのではないのか。男と女の違いはそんなにもクリアーなことなのか。人がもつこころとからだは、同じではないのか。男と女でわけて語られることは永遠にどこまでも必要なのだろうか。この今私が思い悩んでいることがらについて。

とはいえ自分でもなにに具体的に思い悩んでいるかというとよくわからない。自分のこれは一般的なよくある話として落としこまれるべきものことなのか、それとも自分唯一のここにしかないものこととして抱きしめていたらいいのか、そんなこともわからない。

人がすることなんてだいたい似ている。考えることも似ている。そこから得られる教訓というものが存在するだろう。それを参考にするべきもあるだろう。それが自分を大切にすること、自分の時間やお金やこころを。振り回されたり、いいように都合よく使われることなく自分を大切に。でも、自分を大切にって意味とか全然わかんないんだけどっていう私がいるんだった。

自分でも人を好きなのかどうかよくわからないと思う。ある人のことをそうだと想定して考えて見ると、あれ、ちがうのでは?と思えてしまう。そこには好きと思うほどの決定的証拠がどうも少ないっていうかはっきりよく見えない。ぼんやりとしているだけだ。ぼんやりとした大きな綿毛のようなものがぽつぽつとあるような、ないような。だからこんなものではたして好きと思うほどの相対的価値があるんだろうかと思えてしまう。

自分にはこうゆう作用、効果が起こっている、よって好きだと言えるという手ごたえが自分の中にないと、誰かをはっきり好きだと意識することはなんかむずかしい。最近ずっと考えていることだが、私は彼に期待をしていないのだ。ずっと前からそうだった。期待させてもらうようななにかをあの人はしてくれない。しない。それは正しいのだろう。

つまり彼は私のことを友達より以上に思わない。その答えはそうずっと前から出されているし、変わらないはずだ。それなのに私はなにをいっているんだろう。なにをやっているんだろう。なぜ、それでも彼がいいと思ってしまうのだろう。君がいいとそうはっきり思ってしまって、それで、私の人生は変わってしまった。31歳のおわりに。

私はなにを求めているのか。正しさなんてないんだと。正しくなんてなくていい、正しさなんて求めない、けれどいくらそう思っていたところでなにかが得られなければ、それでおわりなんだろうか。自分の中の満足と不満足によってすべては決定的に振り分けられてしまうんだろうか。

そんなことを思うことが今はいちばんこわい。永遠のこのままでもいられない。私はかすかに恐れている。自分が年をとることに。年をとったら、年をとってもはたして君の中にわたしは存在していられるんだろうか。それは急にどこかで断絶を迎えてしまうのではないかというおそれ。私たちはいったいいつまで生きるだろうか。明日死ぬんでも50年後に死ぬんでも、どちらでも同じじゃないか。おなじだ。どうしてこんなにも同じなんだろう。きっと同じだから。君がいるかいないかだけが違う。そんなことに思い至ってはもうそのまま息のできないところへ連れ去られたい思いにかられる。