液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

なぜそんな話の流れになったのか、そう、 父の話をしていたのだっけ、母と。それとも姉の結婚式の話だったっけ。母はまたかという感じで転職のような話を持ち出してくる。そうか、そうだ、私の友達の話からそうなったんだった。母は一体私になにを期待しているのだろう。なにを哀れんでいるのだろう。母は今の私に満足していないのだ。変えろと言っている。自分を。そういえば、もう私には期待しないでくれと言ったのもこの同じ紅茶屋だったのではないか。それは数ヶ月前?いや、違ったか。

母は私にもっと意欲を持った輝いた人間になってもらいたいのだろう。まあそんな風に考えるのも親ならば当然なのかもしれない。けれど私はそれを無理だと答える。朝ドラの主人公みたいになれないの?と母は言った。は?と音に出した。なぜあなたはそんなことを言うのだ。なぜそんなひどいことを言うのだ。そんなことを言うのはなぜなんだ。そのときはやりすごせたのに、帰宅してからその言葉がずっとひっかかってる。

私はなにも持っていない。私にはなにもないのだ。なにもなにもなくて、そのことがずっと怖くて、隠したくて、その無知さも頭の悪さも性格の悪さもあらゆることが恥ずかしい。そして、そのことをまた確認して自分に突きつけなくちゃいけないのが、ただひたすら嫌なのだ。逃げたいのだ。自分にはなにもないってことを、もう私は何度も確認した。何度も何度も自分にそう言い聞かせて、思いこんで、それでやってきた。小学生の頃から自分はダメな子供なんだって思ってた。誰のことも喜ばせられないし、できの悪い子供なんだなって。それがずっとそのまま続いてダメなおとなになっただけだ。そんな自分がキライだ。大嫌いで、顔を背けたいし、自分じゃないとさえ思いたい。けれどそのなにもない人が私だ。その自分に諦めて、受け入れて、それでなんとか生きている。それでもいつも苦しい。なにもない自分が苦しい。情けなくて、恥ずかしくて、もどかしい。なのに、それを変えられない。諦めている。諦めることしか知らないでいる。どうしたらいいのか、ずっとわからないでいる。無駄に生きている。ずっと変わらず、なにも持っていないまま。

何かをはじめようとするには、自分を見つめなくちゃいけない。自分にあるものを取り出して整理して詰め込んで。そうゆうことが苦しい。それは自然と自分にないものを浮かび上がらせる。わたしはいつも人と自分を比べているだろう。比べると結局自分が劣っていることに気づいてしまう。自分にはなにもないことがよく見えてしまう。ヒリリとする。自分でもいったいなにがしたいのかと呆れてしまう。

それでも何もないことは変えようがないと諦めて、この先いいこともないだろうけど、悪いことしかないんだろうけど、生きれるとこまで生きて、もう無理になったらなるべくすんなり死ぬようにしたいと考えて生きている。この人生は失敗なんだ、失敗者の人生なんだって思うことに納得できるし、そうすることで楽でいられるのだ。なんの抵抗もない。そうやって、逃げている。でも私はそれでようやく生きられたんじゃないのか?そうすることでしか、今には来ることができなかった。それがつまり失敗でも。私だってこれが正しいなんて思っていない。考えたいし、変えたいと思うことがある。なのに母はあまりにズケズケとはいりこんでくる。そしてまた風を立たせ、荒らしていく。

少し前から同じ家に暮らしていることに違和感を感じはじめていた。だから、やはり、家族だからこそ一緒に住んでいるべきではないのではないかと思っていた。私はよくこの家で怒っている。私はこの家の部外者みたいだ。今はまだ無理して必死にこの家にいる意味をあてこすっている。でももうそれもやめるべきなのかもしれない。なるべくこの家からはなれたところに住むべきなのかもと思う。山か、海か?もう簡単に戻っては来れないように。