水曜日の夜、新宿駅に降りた。東南口。改札を出る手前、すでに、知っているにおいが近づいてきてると感じていた。私はそれを希求するようだった。吸い込みたい、抱きしめたいとまるで出口を探す主人公みたいに。
魔法がとけたのか、それともそこは魔法がかかった世界なのか、そこは私に開かれていた。それが幻想でもいい、この世界を味わいたくなった。
知っている、それは懐かしさとまでは呼べない、ふさわしくない。でも私の胸が肺が深く呼吸をし安心を得ていることがじつによくわかった。知らない街ではない。知っている人などどこにも誰もいない。でも私はこの街にみずみずしく触れられている。皮膚に水滴が宿るようだったのだ。

そして映画館で映画を見た。満席だった。まだ数日前に公開されたばかり。部屋に満たされる人、押し込まれた空気と椅子。みなで同じものを見る。人に囲まれて押しつぶされないように自分の座席にふかくうずまって、はじまりを待つ。画面の明るさにぼうとする。安心を得る。

佐藤泰志原作の、きみの鳥はうたえるを見た。もう、佐藤泰志の作品が映画化されるなんてのは、もう、そうないかもしれない。あるかな?どうかな。私は国分寺の動物園の話とか、雨の日に走ってる話とかも好きだけど。

原作のままというか、原作で描かれてる場面やセリフは省かれたり言葉ではなく動作としてそのまま描かれたりしながら濃密にその時間をすごす者たちを描いていた。はじめの方こそ原作との比較をしがちだったが、気づけば、映画の時間にひきこまれていた。石橋静河表現者っぷりにはもっとも驚いたし、惹かれた。あのように、踊ることができるのは、誰であれ幸せだと思うのだ。音楽に身をとか渡すのだ。歌をうたえば、また、表現者である彼女は。

友達だとか、誠実だとか。べつにたいして自分の体験が近い状況であったと言えるわけではない。それでも、そういったことに対するもどかしさやややこしさはなんだかわかる気がして、人を思い出すけど、その人はきっと私のことなんかこの映画をたとえ見たって思い出すこともないんだろうと思いながら見ていた。私とその人では、交差しないのだ。見ながら、ああ、そうなんだ、と、納得して、かなしい気持ちになって、忘れたいのだと思った。

原作ではラストなんかも全然違うので、映画は映画の描きだしたいものがあったわけだろう。時代も違う。時代が違うなかで、それでも彼らは生きるための息を吐いていた。私はもう吐けない。吐くものなんてもう残っていやしない、と気づいて、見えてしまう。

付き合ってもいないけどセックスする仲ってなんなんだ。それが一度とか、はじめから前提としてそれを打ち立てた関係とか、そうじゃなくて、そうじゃない場合のそれって、まあ名前なんてない関係なんて本当は無数にあってすべてそうで、家族とか友達とか恋人とかそんな数種の分類になんでもかんでもおさまるわけないはずなんだけど、なのに、なにでもないことをなにでもないこととしてどうしてそのまま放っておくことはできない気持ちが生まれてしまうんだろう。意味なんかないひとつのコミュニケーションだ。