液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

もう全部なかったことにすればいいかー、そうだな、うんうんといったような気持ちにさも簡単になれたりもする。そうゆうこともある。そんな風に気持ちはまるで別人になれるみたいに変わることができる。だから子供が欲しいと思うときがあったりするし、幸せになんてなれなくていいのだと思えるときもあるし、すべて全部うそで早くさっさと死にたいものだと思っていたりもする。自分のなかに確かなものなんてなに一つないだろう。だって、月だって満ちて欠けてはまた満ちて、白っぽく見えてると思ってたら黄身色になってたり、いつも同じ大きさだと思っていたら急に近づいたかのように巨大に見えたりしてるんだから、そりゃ人間の気持ちだっていくらだって移り変わるものだろう。

 

人を好きになるというのは、それはつまり仮定することなのではないかと思っている。好きかどうかなんてまずわからないものだ。なんせ好きということはこれ、という定義が少なくとも自分にはない。なので賭ける、これは好きということにしよう、と。好きではないという方に賭けることももちろんできる。好きも好きでないも仮定とすることによって一旦の身の置き場ができるので、自分としてはそれが割とわかりやすくしっくりくる気がする。

みんなそうじゃないのかな?そうじゃないなら、なぜ人は人を好きだと自分で理解できるのだろうか。恋愛としての好きは、こうゆうところが好き、として処理されるものとは違うのではないかと思う。そのようには簡単にイコールを出せないもの。その得体の知れなさそれ自体でもってしてもそれが好きという感情、とは判断をくだせない私は。

好きか、好きではないのか。それは他とは違う特別、特異として見ようとしてしまうから他の物事と同じように簡単に好き嫌いとして判断できないでいる。その状態は永遠に何かをかき混ぜ続けているようだ。疲れる。めんどくさくなる。なので、賭けるのだ。

 

 

昨日はユジク阿佐ヶ谷へ『A GHOST STORY』を見にいった。去年の公開時から気になっていて、見に行かなきゃと思いながら最近映画館にあまり行かなくなっていたので気が薄くなっていて、新宿でもすっかり見逃し、うわあと思っていたなんとか滑り込み。阿佐ヶ谷まで行くのはどこかなんとなく面倒に思ってしまうのだが、初めていったユジクはすごく居心地よくて東京だけど東京じゃないみたいな湯につかってるような心地の場所だった。うわあ、いいないいなあこんなとこの近所に住めたらなあ、とイチコロになる。

そして映画の方は、すごく良かった。最高に好きだった。何度も鳥肌がたっていて、見ている途中からなんでこんなに鳥肌が立つのか不思議だった。特に好きじゃない人も好きじゃない人もむしろ好きじゃない人もいるだろう、それくらいは予測がつく、だって私はすごく好きだったのだから、そんだけ好きと思う人がいる一方で好きじゃない人がいるのは当然だろうと思い至らないわけがない。なんだろうなこの極端へいくともう片方の極のことへも目配せがいってしまうみたいのってなんだろうな。何かを特別に好き、他とは違ってこれが好き、と思うことは強烈で、くさい野菜みたいなものなのかも知れない。

見終えてツイッターに感想を書いた。もう最近はツイッターに書くことが習慣のようになっている。しかしその字数制限にいつも悩まされる。けれど同時にその限りにおいて嘘を書いてはいけないのだと思い知る。嘘を、自分の言葉でないものを書くほどの余裕などないよということに緊張?が走る。自分が気になったことや、感じていたことなど、それらをそのままナマのまま俎上に載せるのはどうして簡単ではないのだろうか、ということはいつも不思議だ。

いったい何を覆い隠してしまうのか、何が覆い隠してしまうのか。何かもっともそれらしいことを語らねばならないと思ってしまうのだろうか。自分が見ているときに本当に気にしていたある細部たちのことなんかより、誰もが目にしていたであろうとこと、気軽に共有できるであろうものたちのことを大げさに語ろうとしていたりすることがある気がする。それは大衆というものに自分が流され、自ら流れようとしているのではないか。といったようなことを考えたりする。