結局流れる自己嫌悪。嫌なものだが、何度も私はこれを味わうだろうこの先もずっと。つくづく生きてる意味のないための要員だと思える。生きてる意味のあるばかりの人間だけで満たしはされていない。意味のない人間もちゃんと定数そろえておくことが大事なのだろう。それは自らを自らが定義づける人々として存在しうる。べつに私は他者を意味のない人間と指摘したいわけでもないし、むしろ他者に対してはそんなことないと否定するだろう。だが自分に対しては全くそれらは無効であり、私はどんなにさとされても頑なにそれを受け入れることはできない。それを客観的事実としてこのように言葉にしてしまった時のこのかなしみはなんなんだろう。あほだろう。それならそんな考えやめてしまえば、ぶちこわしてしまえばいいだけ、振り切って自分を変えたらいい。でもどう考えても自分には何もないのだということに行き着いてしまう。そのようなからっぽな人間も実際いるのだと受け入れざるをえない。自ら選んでその状況に進んで立ち入ってるかのように思うのに嘆いてるなんてほんとバカみたい。自分でもわからないのだ、そのへんのところ。どうしてわからないのかがわからず、そして恥ずかしくて、その恥ずかしさを表に出すこともできず、解決なんてないのだからと自分のみじめさを自分でも見ないように隠してしまう。この、私の恥の感覚はいったいどこから来ているんだろうかなあ。恥ずかしくて、こわいのだ。

 

ときどき自分の顔が心底いやでいやでしかたなくなって、嘘みたいに大げさなため息でもつかずにはいられないようなことがある。この大きさ、形、おかしいだろ、気味が悪い、醜い、と思うともう立っていることさえ無理だ。普段はもうそれらを直視することをやめているにすぎない。あまり見ないようにしてるが、それらを積み重ねていれば結局たまには気づかずにはいられなくなる。人間としてのいやしさが顔に出てるんだろうなあと思っては妙に納得してまた適度にごまかして過ごすにいたっているものだ。

 

自分の卑しさや醜さを殺してやりたい。私はどうやったって良い人間にはなれず、なれないことが息苦しい。悪い人間である自分でいることが驚愕すぎて、はやくやめたい。やめられない。この汚さはきっと永遠だ。人間のみんなよく生きてるよな、ほんと、どうやったらそんな生きていけるんだ、とか言いながらいくらでも誤魔化して生きちゃうのが生きるってことなのか。いつもはやくさっさと死にたい。それはただの願いだ。今日も変な顔と一緒に生きている。