液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

5/6 ROVO presents Man Drive Trance Festival 2019@日比谷野外音楽堂を見た。17回目だという。気づけば、自分は毎年当たり前のようにこの日を、1年に1度のこの日をとびきり楽しみにしている。最初の頃は5月、ゴールデンウィークの頃が多かったのが6月頃に移行して、でもまた去年からゴールデンウィークに帰ってきてくれたのは、なんていうこともないけれどどこか嬉しいものがある気がしている。年月の流れの中でこのフェスへ、ROVOへ思うことはどんどん移り変わっていく。日記をとぎれとぎれながら書いていることでその変遷は自分でもわかる。最近の気分はといえば、この日だけはもう何も包み隠すことなんてない、しないんだという開放感でいる。この日だけ自分の感度のセンサーが違うような気がする。すべては整わされている気がする。準備してるつもりはないが、もはや自然にそうなるように軌道が作られている気がする。まるで儀式のように。そんなこと言うのは若干キモい気もするが、でももう逃れられないそうゆうものがある、という気配を感じてしまう。

 

ゲスト1組目はトクマルシューゴ、見るのは2回目だと思う。バンドでのライブは半年ぶりとのこと。去年かな、Eテレのらららクラシックでのライヒ特集のゲストで出ていらして、その時のトクマルさんのひとり多重録音がすさまじく鳥肌ものだったので楽しみにしていた。あの画面分割が忘れられない。

そうして実際ライブを見聞きすると、異様な複雑さが聞こえてくるので意味がわからない、訳がわからない感じがした。メンバーは6人だけど、人によっては複数の楽器を鳴らす。とはいえ実際同時に鳴らせるのは6人だけのはずだけど、音の層が幾重にも重なりぎゅっと圧縮されている感じなので、層がある認識はできるけど自分の中で解析のようなものは全くできない。層、といえど一つ一つにはっきり境があるわけではなくそれぞれの層が同時にスタートして泳ぎだすものの上へ下へ潜り込みあいながら前進しているといった感じなので、ひとつの音のラインなのだけどその中の複雑怪奇さが異様で、不思議でしょうがない。すんなりしているが、何が起こっているのかのわからなさではてなが全身を行き交う。

途中で複雑なハンドクラップなども見せてくれる。微妙なズレのようなものがぞわぞわとする。トクマルさんのギター弦抑える指の開きが凄すぎるのが遠目でもよくわかる。うっわそんなに開くの、そんな風におさえちゃうの、吐きそうですらある。

毎年馬鹿みたいにこんなライブやって、ROVO先輩すごいですね、とか、終わりたくない!僕が弾かなければ終わらないんです!と言うトクマルさんはなんて素直なひとなんだろうなあと、よく知りもしないのに感心してしまうほどに思う。ああでもそうやって演者の人も思うんだなと思うと嬉しかった。あまりに楽しい時は、もう最後の曲なんてやってほしくないとこちらも思うものだ。演奏中はずっとガチガチにかなりテクニカルなことをされていると思うのだが、喋るとキラキラしたまなざしを振りまくかのように喜びが伝わってきた。レベル高いバンドだな。

スタート時には隠れていた太陽が、途中から少しずつ顔を見せて陽を客席に伸ばし始めた。強くて、でもそれが気持ちよくもあった。終わったらまた隠れた。

 

2組目のゲストはtoe、2年ぶりくらいに見るかも。今まで見た中ではいちばんに良かったと言うか、気持ちよかった。ちょうど風が吹くことも、また陽が差すことも環境としての良さはもちろん手伝うけれど、私は野音はそれゆえに気が散ってしまったりもする。でもtoeの音の強さでそうゆうものも飛んでいた気がする。

toeはまずメンバーのルックスがいかつい、妙な強面感がある、なのに音は繊細だ、と言うのがいつも自分の中の反転としてある。うまく言えないが男性が好きなオスのにおいがするのか?と思う。それはさておき今回は1曲目からごりごりっとしたルックスそのまま、ロッククライミングしますみたいな感じで音が出てきたので面白かった。何が始まるのかと言う予測のつかなさが空気を変容させる感じで、観客の雰囲気も狩りにでも出るような前のめり感へ。

柏倉さんのドラムは見ていて楽しいし、気持ちの良い音を叩くので好きだ。でもまあ聞きながらついつい芳垣さんのドラムだとどうゆう音が出るのかなどを考えたりしている。異様だな、と思うのは動きがダイナミックて言うか動きの幅、範囲がでかいのに瞬間移動してるかのようにちゃんとドラムを打っているところだな。ドラムの人の好きな動作はやはりその身体の大きさだよね、と言うことで納得した。彼らは風をおこしそうだ。

書いてみるとあまりよく覚えてないことがわかるけど、あっという間であった。昔はROVOが始まるまで長くて長くて早くROVOにならないものかとせっていたものだけど、年齢のせいなのか?と思うとわけわからなくてぞっとした。ライブの最中はなんとも思わないのに、ライブが終わるとすぐさま空気が冷たく感じられ始める。あまりにも差が大きい。もう次はROVOなのか、となぜかおそれを感じた。座った。

 

ステージの転換はあっという間で、気づけばROVOの仕様になっていた。ツインドラムがそれぞれかさ上げされている。陽が落ちて、急にステージ上の床面が浮きだって見えてくるのがいつも不思議だ。異様に綺麗に見える。目がおかしいんじゃないかと思う。太陽が落ちた、それだけで眼に見えるものは全然変わるんだとわかる。そしてこの時間からが本当に良い時間だと思う。なので、この時間から始めるROVOはいつもずるいなと思う。おいしすぎる。まあ、主催なのでそれも許されて当然だ。もちろん、それを扱えることがROVO野音のステージの素晴らしさだなと思う。

空が一段暗くなったことで、まるで演劇の一幕が降りたかのような空気が準備される。粛々としたおさまり。いつものことだ、いつものことだがいつもそれが不思議だな。私たちは出迎える。

ここからはもうステージしか目に入らない。暗くなってくれば眼は光のある方へ自然とうながされ、あとは消えていき、見えなくなる。ライブハウスなら特段思わないことも野音ではそれがよくわかる。そのことが何度でも面白い。

名阪京のセットリストを見ていたので、それまでにやっている曲とやってない曲とでくるだろうなどとは予想を立てている。1曲目のBatisは益子さんの音が出た時点で次は仁さんのベースが入って〜と頭に描ける時点で気持ちがいい。私がこの曲で最も見ものだなと思うのは次に入ってくるツインドラムで、長い時間をかけて音数と音量を上げていくところだ。山本さんと勝井さんの音が入ってきても、それでもツインドラムを注視していたい。最初はドラムスティックがほんのすこししか揺れていないし、岡部さんと芳垣さんの手首が軽く動いているだけのように見える(ちなみに私はPAテントのすこし前、中央よりで見ている、視力は大してよくない)、それが徐々に肘の方まで動くようになり、肩を含めた上半身の動きにまで増幅していくのが見える。BAALも確か似たものがあり、このふたりの極小な音、動きからの時間をかけてのクレッシェンド、じゃおさまらないダイナミズムはこんなことってある?!っていうくらい、意識していないと、意識しててもわかりにくいくらいの徐々の加減でもって駆動率をあげていくように思う。自分が興奮してきて何も見えなくなっていくのがアホだけれど本当に美しいと思う時間。いいお湯だなーって浸かってる気分になる。

次からは新曲がつづく。確か去年の3月のピットインでのワンマンの時から披露しはじめた新曲たちだと思うので、ちょうど1年が経つ。もちろんその初回を詳細に覚えてるわけじゃないけど、こうやってライブを重ねて作り上げていくところに改めてすごみを感じる。それがこのバンドにとって都合が良いとか理にかなってるとも言えるかもしれないけど、それが出来るのはこのメンバーだからであり、それをやり続けられる体力、知力が集うことの具体性を見ているのだと思うと、少しおそろしいのだ。

新曲1(acceto? )は今年の1月のワンマンでも聞いているが、その時山本さんのソロの時の音がとても印象強くて面白かった。そしたら今回はまた全然違ったと思うんだけど、うわなにこれっ…と思わず身を引くような音でまずびっくり、なんなのなんなのこれは、、これは、、油のぎとぎとを想起させるような音だ、とわかる。中華料理屋?ラーメン屋?(ラーメン屋に私はあまり行かないが)の調理場とか壁とか?に長年放置されたままかのように居座っているベトベトのようなぎとぎとのようなあれ…そんなこと言うのは飲食店に失礼なのか?などと考えつつもまさにそんなものだと想起した。あの触れたくなさの感じ、ぴったりだ、とか思ってたら山本さんがその音でバリバリごりごりに弾き倒しあげていたので驚いた。その音で!そんなに!弾くの!と思って。頭が割れそうだ。かっこいい、と言いたいところだがかっこいいという表現じゃ全然追いつかない、けどとりあえずそう言っておく。実際あれはかっこいいのかどうか既成概念が通じないもののように思えたな。

新曲2は早めのテンポじゃなかったかしら。どうしても1の記憶に押されがち。次の3にも挟まれて短めに感じがち。かと言って今回は3のこともあまり思い出せないような。山本新曲という名の、山本さんの音から始まるぞわぞわとする曲で、でも前よりまとまりが出たような気がしないこともないのでは。岡部さんが手で2拍叩いてから入ったのがこの曲だっけ?どうだったかな。ああゆう空気たまらなく好きだ。空間をねじるようで。

そしてきっとやるだろうなーと思っていたCONDORからn'POPO〜LANDと続く。ここからの照明はほんと面白かったな。n'POPOはすこし即興っぽくなる、聞こえる瞬間があって、それがざっと風に吹かれて流れ聞こえてきた音楽みたいで一瞬混沌とする。こうゆう時間をトイレタイムみたいに使う人もいると思うけど、私はこの時間がえらく官能的だなあと思う。盛り上がるとこだけ盛り上がるみたいな人たちもいてこそと言うか、あらゆるすべての混ざり合いが野音の面白みでもあると思うから、人も自分もどう思っていようが自由というなかで。

LANDでの照明は特にステージ奥の床に一列に設置されていた360度回転しそうなライト群の演出がすごかった。もしかしたら以前にも同じような動きとか見たことあるかもしれない、とも思うのだけど、照明の動き、作りで見事に曲線を描きあげ立体になっている、これはなんだ、と思い、ああ彫刻を作っているんだと思った。光は形を留めたかと思えば、柔らかな隊列を作って変容し、空中へ、客席の遠くへと伸ばし、放つ。光に照らされる日比谷公園の木々の表情がおもしろい。それを目で追ってしまうと、音楽がまるでBGMのようになってしまう。スペクタクルな一場面を見ている気になっていて、違った、音楽が主役だったと意識を戻すが。ここの音楽と照明の共演はとても素晴らしかった。互いが互いを内包しあい、表になり裏になる、固く編み込まれた織物のように豊かだった。

いつまでも終わらないでほしい。終わってしまうのは知っているけど。終わりは数えられている。カウントされ、そこに最初から導かれているとはいえ、時間は操作され引き伸ばされているようにも思う。まるで手に触れるものとして時間という空間はあり、その中を宙に浮きながら歩いているような。音楽の中で踊り続けるというのは、不可解な現象を引き起こすものだ。気づくと足を踏み入れている。

アンコールはsino dub、山本さんのギターが始まると、なんとも言えない不安定さを感じてぞくぞくする。私はほとんど何拍とかがわからないのだがこの曲では他のメンバーがみんな?拍をとっているのが見て取れる。だから私もそれに倣ってしまっている。この他のメンバーが入る瞬間がめちゃくちゃ気持ちいいし、かっこいい。何かを開けてしまった音楽だ。最後だなあと思って、それでもまだ全然踊れるなあと思う。数年前の方が自分の息切れ気味を感じてたのはあれは多分D.D.E.とかやってたからじゃないかな、とか思ったり。

嘘みたいに気持ちよくきれいに終わった。決まった。かっこよすぎちゃって、拍子抜けなくらいの気持ちだった。でもほんとかっこよかったので、最後のそれを急いで写真に撮った。時間が止まっているのかと思った。勝井さんがまたここでやるから、とかって言う。いつものまた来年、ではないけれど。たった2年だ。終わってしまった。今年もやってきて、終わった。

いつもならここでまた来年だ!って思ってるからだろうか、今年はそれがない、できないという喪失感があれ?なんか変だな?なんだろうこれ、ん?といった感じでやってきていた。なんか変だな、って感じがざらざらしていた。すごく良かったけど、良かったけど?来年ここで見れないんだ?という思いと、いやたったの1年見れないだけでしょ、なんてことないでしょ、サムズアップのワンマンだってあるはずだし屋内MDTやってくれるかもでしょ、と思うんだけど、え?でも?という自分でもびっくりなせめぎ合い。こんな感傷的なバカは自分だけなのか…頭おかしいのか…何考えてんだろう自分、あ、やっぱサムズアップのワンマンあるでしょ(チラシもらった)、と思いながら帰宅。でもやっぱ来年は野音で見れないというのは自分にはとても寂しく、辛いことなんだなと認める。なぜって、だってずっと毎年この日を楽しみにしてきたのだから、それが急に来年はないだなんて、簡単に受け止められるはずはないよな、と急に自分肯定モードに入る。考えてみたらライブの最中もずっとそのことが頭にあった。

私がこのフェスに初めてきたのは2004年の2回目の開催の時で、ROVOを知ったのがその2年前だから自分にとってはバンドとこのフェス自体がほぼ一体となっていて、この野音の場を通じてROVOの音楽を聞いてきた、ということが大きすぎるのだ。まあそれで大阪に行ってたし音楽をあまり聞かなくなってた頃もあるけどそれでもROVO野音だけは行って、というところもあった。10代の頃は、中西さんもいてシンセが2台というせいか山本さんのギターの音がどれなのかよくわからない、と思っていたりもした。わからないことが悔しかった。(後から思えば弾いてなかったとかもありうるが)でもそれもいつの間にかなくなり、今では本当に6人の音がそれぞれよく聞こえるようになった。自分の耳の効果だけじゃないにしても、聞き続けてきたうえでよく聞こえるようになってきたのでは、という実感があって。まあそれは他の演奏の影響含めてなんだけれど、でもROVO野音はそれが一番試されるようなもので、自分の中では聞く、ということにシビアに向き合う場のような。お酒弱くて飲まないので、その態度は特に若い頃は飲んだくれの人々に対してのアンチみたいなものもないことはなかったかも。今もないことはないか。

でそれがずーっと自分の中では続いていることだったから、思ってた以上にでかい喪失感が!きた!野音に集まってくるお客さんたち、ほぼ誰のことも知らないけど、でも毎年ここにいる人たちも来年はないのかと思うとお先真っ暗な喪失…となぜかなるくらいには存在がデカかったということを思い知った。そうか、そうなのか。なんとか、待とう、2年後を。ああ考えられない。むりむりつらいつらすぎる。考えると吐きそう。