液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

 はじめて自分のこの日記を人前で声に出して読むということをした。そんなのなんてことないことだ、私はずっと書いてきてるし読み返してるしそもそもここはインターネット上に公開されているのだから、といった気分で当初はいたような気がする。がしかしいざ読める日記をと探しはじめたら、いやどれもこれも読めやしないムリムリくだらな過ぎて恥ずかしすぎるものしかない、ということに気づき思っていたのとなんか違う、これはどうしたものか、もうちょっとマシなものはなかったのか、と思うもないものはない。

写真家の金川晋吾さんがツイッターで日記を読む会というのを開くという告知をされていたのでぜひ参加したいと思うも4月は旅行と日程が被っていた。しかしあきらめきれない、と思っていたら金川さんが参加されるグループ展の期間中にイベントとして同じく日記を読む会が行われるというのでそっちなら行ける。その展示、以外スタジオには5月のはじめに行ってその際に金川さんがいて話もしてくださり、4月のはすごくよかったんですよ盛り上がって〜みたいなことを言われてたのだが日記を読む会で盛り上がるっていったいなんなんだ全然わからない、と思ったのもありきっと行こうと思っていた。

なのに直前になって怖気づき、やっぱり行くのやめようかな、やめといた方が良いのではと思い始める。でもこんな機会、自分の日記を声で読むこともひとの日記をうかがい知ることもそうそうあるわけがない、行った方が良いに決まっているはず、とぼんやり自分を誤魔化すことにした。

でもやっぱりはずかしいもののかたまりであった気がする。でももともとこの日記を公開してることは恥をあけはなっていることと思ってはいるから同じことのような。とはいえ日記だけを勝手に読まれるのとはわけが違う。こんな姿形の自分が書いてます、とバレるのはもそもそとした恥ずかしさ。でも、日記といえどさまざまな形、捉えで集まっていたのでそれを知ると自分の日記というのもある一種に過ぎないとわかり、次第に気楽になった。

参加者は女性の方が多く、皆さんの了承のもとiphoneで録音もされ、それはその後参加者で共有された。まだ聞き返したりはしていない。テーブルを囲み、最初は直近の日付のものから読むのを3周。あまり聞かれたくないという思いがそのまま読み上げる速度となって早口というか雑ぎみに読んでしまう。唐突に知らない人たちに自分が知られてしまうようで恥ずかしさとも違うような気まずさ?読み終えた後から汗をかく。自転車をこいだ後から汗をかくのと同じ。

ひとの日記を聞くというのも初めてだった。昔は日記をネット上で書き、公開しているもいたがブログが出始め、SNSの普及により日記というスタンスでもって書いてる人はまばらになったようにも思う。というか単にそれは幅が広がっただけなのかも。なんであれ自分以外のひとはどんな風に日記をつけているのか、それを読みあげても良いというのはどんなことなのか、など興味があった。私はそもそもネット上に公開しているが、決して積極的に人に読んでもらいたいわけではなく、読みたい人は読んだらいい、しかしもし読んでる人がいるならその人はおかしいのではないか、と思っている体制だが、紙に書いてるとか自分だけが見れる形で書いてる方々は人前で読むことへの意欲はそれってどうゆうことなんだろうな。日記、という名のもとに人は集まれるらしい。

日記の書き方も色々ある。何が目的なのかはっきりしている人もいたが、そうすると私のはかなり曖昧というかごちゃ混ぜな気がする。考えてみたら確かにそう。聞かれて、書きはじめたこと、書き続けてることについて答えはしてたけど、それだけではないということに後になって気づく。私にとってはその都度日記に負わせる役割が移り変わり、混ざり合い、なので日記上で何度も確認をしてを繰り返している。記憶、記録の保持の面も強いし、書くこと自体の面白さもあるし、読み返す面白さもあるし、それが知らない誰かに読まれているのかもしれない奇妙さも自分には心地よく、常に何かの確認であることは大きいのかも。なんでもありなのだった、とここに来てはじめて気がついた。ただそれらは日記というものでひとまとめにされており、日記以外のなにものでもないと思いこんでいた。

 

例えば日記を読みあう仲の人というのは独特の親密さがあると思う。読まれてる、だけより互いに書いていてそれを読み合っている、というのは実は特殊なのでは、と思う。それだけの関係だとまた特に奇妙で親密で。ツイッターだとまた微妙に違うのか、似ているのか、どうかな、人によってくる。なんにせよ直接対面に出会って声で会話をすることを通して知り合っていくのとはちょっと違うとは思う。基本的にコミュニケーションはとっていないので、決して話がはずむ仲とかになるわけではないけれど、自分はその人に知られている、という了承があることはコミニュケーションを介して知り合っている人とは違う前提の共有があるかのような。

日記だからってべつになんでもかんでも書いてるわけじゃない。明らかに書かないことがある。私は公開しているのでやはりそこの書く/書かないは常に意識されている。言葉になる/ならないでもある。

私の中でブログやnoteというのは見られることというか、他者に読んでもらうことがまず前提としている場所のように感じられる。つまり読み手を意識し、配慮がなされていると。日記をなのる私はどうなのかといえばそれはない、というのが日記を書きはじめた当初からある。態度として日記を書こう、とはじめた。そしてこんなつまらないものは読む人なんているはずはないと決めていた。そのふたつのことを15のとき以来ずーっと守っている、といえばそう。

自己肯定感の低さが影響してるのか、誰も読むはずがないという設定のようなものは自分にとっては機能しやく維持しやすい。そう設定してる上で書いており、書くことができているような。誰かが読んだりするようなものであるはずがない、という前提で自分を縛り呪いをかけているようなものだな。それはかなり過去を遡れば若さゆえか逸脱している感じもあるのだけど、でもその頃はまだぶれてる感じで、それを隠す機能としてはあたかも人に話しかけてるようだけど自分に自分で話しかけている感じであったり、届かない手紙を書いてる感じ、といった設定を許すことにしていた感じ。どうやって書けばいいのか、といった迷いは若い頃はかなりあった気がする。なのでその頃の日記を見返すのは自分ではかなり恥ずかしい。お子様だ。

休憩をはさんで6日分くらいは読んだだろうか。途中に自己紹介などもはさみ、それぞれ色んな記しかたをしているんだなとわかると少しホッとしたのか、終わりの方ではなにが恥ということもないような思いにいたりちゃんと、読む、ということをしている自分がいる気がした。朗読者気分で。

金川さんは誰とも等しい分量で話をされており、それはまるで自然で、人を撮る写真家の人の感じを知る。もぞもぞした始まりの呼吸の整わなさから少しずつ暑さにも慣れ(30度越えの真夏日に開け放たれた畳の部屋には冷房器具はなく蚊取り線香は臭い立つのに関係なく集まってくるハエが飛ぶ中四角い机を囲んでいた)、場所にも慣れ、参加するのどうしようか〜とめっちゃ迷ったけれどやっぱり来てよかった。