液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

日記を読む会に出て、読んで、特に昔の日記を読み上げてみて、帰り道にハッとした。もう自分には昔みたいに毎日何があったかを記すように日記を書くことは出来ないといつからか思っていたのだが、あれ、そんなことないな、と思ったのだ。同じように書けばいいだけだ、とまるで、ひらめいた。声に出したことが、なぜかそんな効果を生み出したらしい。それが、目で読むこととはまるで違うことだと思わされた。だってそれまでは何度読み返してもそんな風には思えなかった。なんとなく想像するに、声に出して読んだことで書くときのリズムみたいなものが思い出されたのではないか。

なので今のところこうやって書いている。次の日の朝とか昼休みに。そう、昔もそうだった。なのにいつの間にかその日の夜までに書いたものじゃなきゃダメだという日付原理主義者みたいなことになっていた気がする。いやいや違うでしょ。

金川さんと喋った時に、写真集に入れてる日記は写真集のために修正したり追加したりした、という話を聞いて、ふと不思議さを感じる自分がいた。と同時に、そういえば日記ってそうゆうものだよな、と思った。まるで忘れてたらしい。とはいえ自分も今でも日記の修正など散々している、でもそれはあまりに手軽にできることなのですっかり意識になかった。でも例えば手書きの日記などでもそうゆうことはよくあることだろう。というのを例えば島尾敏雄の日記などを思い出して思った。なぜそんなことするのだろう、と思うが、日記はそうゆうものだ。誰かのために書いてるわけではないのに、まるで誰かに読まれたときのことを想定でもするかのようにして修正され変更されたりする。誰か、とは自分なのか?自分という他者なのか。日記という集積はまるで大きな波のようだ。

今日は夜に書いてる、5/30の夜に。仕事は昼過ぎで納品終え、16時頃には帰宅。干してた洗濯物を取り込み、冬物のセーター類をおしゃれ着洗いする。Amazonで買っておいた平置き干しをようやく広げる。ムートンシーツもしまう。よって押入れの片付けになる。流れであちこちの掃除や片付け。風が強いらしい。

そういえば26日の日曜日は日記を読む会の前に大学時代の友人3人に会っていたのだが、なんも書いてなかった。神奈川の辻堂で。ひとりだけは8年ぶりに会った。大学生の頃と同じであるといった濃密さがあれば、みんなもう大人なんだなあという強烈な違いに自分だけ落とし穴に落ちたように気が滅入る気もする。たったの4年間を近い場所で息していただけで、それしかない。それなのにそのことは特別さとして存在感を放っている。けれどいざそれをつかもうとすればあまりにちっぽけなのではないか?という恐れもある。その後の時間の方がもう随分長くて、その4年間のことは時が経てばたつほど扱いづらくなるような気もする。もうずっと地中に埋めといたら良いのかもしれない。けれど、つい、何度もなんどもそれを掘り返してはフタを開けてしまうのだろう。

 

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