液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

f:id:qyu:20190603181822j:plain

本当は美術館に行こうと思っていたが疲れがひどいので無理だと判断する。色々いってないものが多く、終わってしまうだろう。どれかを行き、行かない、という選択と判断。どれでも良い気もする。

親が車でベッドシートを持ってくる。思ってたより来るのが遅いのでお腹がすきすぎる。パスタを食べに行く。やはり疲れがひどい。少しだけ読み始めてたミヤギフトシさんのディスタントを読み進める。おもしろい。このように、書かれるものがあるのだなあ。ミヤギさんの写真や映像作品から流れてくるのと共通した匂い、風や静けさや湿り気が同じように小説にもあるので驚く。そのようなことが可能であるということに驚いている。面白くてワクワクするが、この面白さは一体なんなのか、どういうことなのか、と不思議がる。

夜ご飯も簡単に済ます。少しずつ見ていた黒澤明の天国と地獄を見終える。山崎力はやはり若い頃から背中や肩のゴツゴツした感じがかっこいいな。黒澤明の映画はあまり見ていないので不思議も多いが見やすかった。

 

そういえば今週、自分は誰かのために何かをするなんてことは今までにしたことがないんだなあと気づいた。や、それは知っていたような気がするけど、それをひっくり返した形で、つまり自分は自分のためだけにしているのだという裏返した認識はあった。でも裏返ればつまり他者のためにはしない、ということになる。それは、自分なんかにはそんなことはできない、してはいけないという思いからのものだ。自分なんかが、という精神。自分なんかが、だれかのためになんて思うのはおこがましく身分にあわないので許されないことだ。だから最初からそんなことを想定してはならない。常なる自己否定がないと私は安心もできず何かをすることができないようだ。それはずっとずっと自分にまとわりついていてもはやそれが自己を保っている気はする。そう定義しないことにはひとに自分を見せることはできず、それによって自分を守っている。

よって、そうではないひとが羨ましく思える。なぜそんなことができるのか、不思議で奇妙で気持ち悪くさえ思えることがある。育ちが違うのだろうか。見えるものが違うのか。羨ましく思うことさえどこか恥ずかしく、自分が惨めになってしまうので、そんなことはない、それを担保するためにはやはり自分なんか、という支えを必要としてしまう。大陸から切り離されたこぶのような気持ちになる。

なぜ私にはできないんだろう。できるのか?できないのは、しないからだ。この、しない、と、できないの壁は複雑にいくつもの異なる素材で出来上がっていそうだ。一つの道具では終われそうにない。混ざり合わない。

なぜこんなことに気づいたんだったか、確か、タイムラインで流れてきたツイートを見たせいだと思う。気づかされた。自分は寂しい人間だろうか。それは誰かに判断されることだろうか。そもそもそこに他者を存在させようとするか、しないのか、それは自分の判断だろう。果たして、人間には種類があるのか?種という考え方は、どうなんだろうな。