液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

金川さんの日記を読む会にふたたび参加した。とはいえこないだの5月に参加したのとはまた別。その前に4月と6月の2回連続企画の会がkrautraumという場所であり、でも4月の日程が旅行とかぶっていたので5月の公開読む会に参加、そのときちらっと6月の会は欠席者がいるということを聞いたのでどうしようかなと迷ったけど数日前にメールで問い合わせたところ参加可能とのこと。違いとしてはこちらは密室空間で参加者はみな日記を読むということ。そして1回目のときに2回目用に指定された日付や曜日の日記を書くことが提案されていたらしい。そういった、すでにできあがってるらしき中に入っていこうとすることは私は得意でもなくこわごわな気持ちもあったけれど、やはりひとの日記が気になる思いがあり参加してみたいと思った。日記にまつわる様々なことがらがやはり気になる。いやもうこれはすごく気になるというレベルだ。

終わってみると、やはり人によってばらばらな態度や状況で日記は書かれており、自分のものもそう。その一種。それは前回も感じたことだが今回は前回よりさらにふみこんで色々と参加者の方たちと日記について喋ることもできてとても面白く、考えるものがあった。ありすぎて今はもうパンクしそう。でもすごく楽しかった。楽しかったってなんだ、とも思うが、刺激的であったことは確かではないのか?

 

場所は住所非公開にされているとのことで、メールで教えてもらっていたのでグーグルマップでたどり着いたがポストにも表示が一切なくて不安になる。一度外に出てあたりを見回して、でもここしかないよあと勇気を出してピンポンする。そうしたらちょうど金川さんも現れてほっとする。緊張はあったものの、それでも2回目なので前回に比べたらそれは下回っていたと思う。そう思うと5月の時は確かにものすごく緊張があったのだと改めて思った。

5月の時は空間のすき間や開放性、人の出入りの自由もあったし聞くだけの人もいたが、今回はそれとは何かと正反対だった。自分としてはこちらの方がスタンダードな日記があるのかな?と想像したのでそれが聞いてみたかった。場が違えば集う人も違うのだなとわかった。4月の時の話や5月の時の話などをそれぞれしたり、聞いたり。参加者は結局どちらも同じく7、8名だったということになるか。

今回は録音したり、途中でコンビニに行ったり、録音なしでやったり、席順を変えたりした。私としては正直録音するしないはどちらでも関係ないなあと思っていたが、みなさんは違いがあるらしかった。なんでだろう?その辺は、やはり私は基本的にここでこのように公開した日記を書いているというのがあるんだろうか。

5月の時の時点で金川さんの日記の書き方のようなものはなんとなく親近感を持つものだった。でもそれはある程度続けて書き続けている人特有の雰囲気の共有なのかもしれない。今回の他の参加者の方は前にも書いていたことはあるけど、この会のために、この会があるから書いたという方や、あと、結構私が気になったのは日記というフォーマットにおいて何を書くか、ということであって、つまり日記というものを何を書く場としているかってことになるが。ほとんどの人はその日にあったできことを記していた気がする。そりゃ日記だからそうか。でも私は自分の日記がそうじゃない、ということにその中で気づいてしまい、あれ?私のこれって日記なのかな?と思ってしまった。ま、まあ、私はここを日記と思っている以上日記であるはずだけど、それって日記なの?と誰かに問われたらどうしようかと一瞬思った。自分にとっての日記とは、その日思ったことを書くような場でもある。その日その時そうゆうことを思った、という成り立ちを書いておきたいというような?刻印のような。

また、4月に参加されてる方たちは6月にまた読む会があるという未来を持っていたために日記を書くときには読むという意識があって書いたという人もいた。それは私にはちょっと不思議な感じがした。私はというとそれは全然なかったような。いや、ほんの少しはあったか。やはりここでも私はそもそも公開している、というのが関係するのだろうか。基本的に誰かに読まれるかもしれない、というのは忘れてはいなくて、でも誰一人として読まないかもしれないとも思っていて、まあそれは今の所結構どうでもいい。むしろ知りたくないという方向性のような。

それでも人によっては書いてあるけど読み飛ばす部分もあるらしかった。私も部分的に読まないですましたものがある。私はそこに起きている読み上げる日記の選定作業や読める、読めない場所の選抜作業が興味深いなあと思った。そこの心理の働きって、また微妙に違っていそうで。私自身はこんなくだらない自己の吐露を読んで人を不快にさせてはいけないような、とか、同時に不快に思われるのが怖い、といったものがあった。でも5月の時には読まなかった、見にいったライブのことを書いた日のことについては読んでみることにした。5月で読まなかったのは、それは、メジャーでもない人たちの得体の知れない音楽のことをだらだらと読み上げても退屈に感じられてしまうかも、といった思いが働いていた。今回それを読めたのは、やはりスタンダードな日記を書いている方が多く、そこには全く知らない人物や場所、事柄について書かれていたからだった。そうか、それでいいんだよなあとふっと思えた。そういった違いが自分の中に出たのは面白かった。しかし読むのはいつでも良いとされると、自己検閲が入って読む日記を選ぶ作業はちょっと訳が分からなくなりがちだったので、この日、この月、など少しでも指定がある方が逃れようがなくて良い気がした。人によって違いそうだけど。

考えてみると、私はネット上とはいえ直接の知り合いに日記が見つかる可能性なんてないに等しいと思っていて、ここでもイニシャルで誰かが言ったこととかしたことを平気で書いていた。あれ、でもそれってあまり良くないのか?と急に思えたりもした。ミクシィも同時に書いていた頃、招待制だった頃は読める人認定制度を使ってたこともあって実名で書いて公開にしていた。その頃は私の大学生活のことなどを、大学の友人でない人たちが結構読んでいた。私自身、全くよく知らない人の日記でさえ具体的であればあるほど面白いと思って読んでいたからそうゆうもんなんだろうと思っていた。日記に記すのは自由だけど、でも書かれた人からしたらどうなのか、と、ここにきて初めて気づいたというのは鈍感すぎるのか。でもとりあえず、まあいいか、と思うことにする。

読み終えて(この時点で3時間経っていたのだろうか?)、感想などを話し合った。5月の会ではこっくりさんみたいと出たがやはり似たものがあるとか、録音の有無についてとか。一番のもんだい?は1回目の時のど緊張感と、2回目のその喪失についてなのではないかと私は思ったが。私はそれぞれ違う場所で参加したから、会が開かれる場所の影響はすごく大きい気がしたけれど。5月のあれは畳、窓、ちゃぶ台、暑さ、無風、無関係な人々の気配、感情の揺れ動き、写真、といった一つ一つの要素が読むこと聞くことに大きな影響を及ばされた気がした。今回は静かさや気温、風景が揺れ動かず一定が保たれ、そして2回目ということが結局大きく影響したかもしれないけど落ち着いて読める心地になっていた。やっぱり初めてと2度目では、会としては、別物になるんだろうと思った。それが良い悪いというのかどうかは分からないし、それは関係なく読む会の面白さは確かにあったと思う。それはただストレートにひとの日記を聞くということの面白さだ。1回目というのはそれは特殊な経験にはならざるを得ないのだろうと思った。そう言えば、自分の日記を読み終えて隣の人にバトンを渡す時のアイコンタクトも、1回目の時の方は妙にじっとり渡されていた気がする。

この会があることで日記を書くことの励みみたいなものには確かになるのかな?という思いと、でも私はあんまり関係ないような?と思わざるをえない。日記は特別なものではないんだなあと思う。ずっと書いているとはこうゆうことか、と自分のしてることを外から眺められた気はする。すごく書くときもあれば、全然書かない時もあって、常に練習をしている感じ。本番はないまま。

そういえば、数年前の日記を自分で読んだときは結構な奇妙さがあって時空がひん曲がるようなのが少しおかしかった。たった数年前でも、微妙に文章の書き方が違う気がして、とても読みにくいのだった。こいつ何書いてるんだ?とかなり不可解な気持ちで読まざるをえなくて、まるでひとの日記を読んでるみたいでもある。でも自分の中にずっとあるのは読み手がいることを意識したくないといったことだ。意識を持ったらうまく書こうわかりやすく書こうとする気がして、それは嫌だというのがある。それは極力廃したい。完全にないなんてことはないが、態度としてそれは持っている。なにも伝わらないような個人的なものを書きたくて書きたくて、というのが自分にとっての日記のひとつだ。そうだ、だから、個人的なものについての話が出たときは興味深かったが。でも表現をする上ではまたそれはやっかいなことでもあるだろう。

しかしなんか、自分が日記を書き続けていることについて?聞かれて答えるのはどうもむずかしくて。かなりふんわりとしたことしか言えない。この、人に見られてるような見られてないようなといった状態がなんとなくおもしろいような、おもしろいこともあったし、おもしろいことが起こりうる可能性があるみたいな、まあなくても構わないしないと思ってもいるんだけど、でもそうゆうの全体含めてなんとなくおもしろいから、といった感じで、でもそれを言葉にしてみたらいや答えとしてなんも伝わらないでしょと思えて我ながらサーっとひいた。でも、その後で、あ、なんとなくってことで良いのか。なんとなくっていうのはなんとなくっていう状況、状態のことをまさに指し示しているわけだから。それをもっと解体するかしないかだ。しないとする態度をとるならば、なんとなくさ、についてはなんとなく以上に語ろうとしちゃうとなんとなくさが壊れてしまうよね?ってことかな。

最後、いける人で夜ご飯を食べにいった。5月の時もそうだったけど、参加者の人の多くは何かしら表現に関わっている人がほとんどだった。そうゆう時、他の場とかでも、ちょっと身を引いてしまう自分がいるかなあと思う。同時に自分はただの会社員という立場がそれはそれでそこでは奇妙たり得る気もするが。でもなあ、どこか羨ましく思うようなモヤっとした思いも流れているなあと思う。それは、表現をしようとする人たちには意思や信念を感じるからだろうと思う。自分はどうなのかと、それだけで突きつけられるようだし、また、人が表現をしようとすることは特別に特別なことではないんだということも感じさせられる。私はアートなどが好きな友達が周りにいるわけでもなくそれが普通になっているけど、それとは違った環境や人々がいるんだなあと思うと眩しくも見えてしまう。

でなんか詳しくはわからなかったけどほとんどの人は事前に金川さんと知り合いだったとかなんとかで、あ、じゃあマジの日記マニア?愛好家?みたいな人はまだまだ出てくる可能性などあるのかな?など気になり、金川さんが何かしら日記について続けて行ったらどんなものが出てくるのかなと気になる。金川さんが私の日記についてハードコアと言っていたのが笑う。人と日記についてこんな風に話せるなんて考えたこともなかったから、改めて日記というものを考えられるようになった。ことばから、金川さんは常に考えている人だなと思った。言葉の用意があるかないか。それが作家だろうけれど、この2回を参加できたのは金川さんの人柄にもよるところは大きい。

 

 

金川さんのすごくよかった日記を読む会についての文章。みんなであれはよかった、と言い合った時の空気がすごくよかった。

金川晋吾 「日記を読む会」 - krautraum

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