液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

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昨日の夜からの爆睡、朝の6時というわりと普通の時間に起きる。もっと早く起きれるかと思っていたのに。シャワーを浴びる。疲れが取れてない気がする。寝たのに寝た気がしないのは、寝るという行為がちゃんと段取りされていないせいだろうか。手順、といったほうが適当か。ただすれば良いだけではない。

朝の車の中であさいさんから昨日の現場が夜中の2時過ぎまでかかったことなどを聞く。私はその前から随分寝ていたわけだ。こんな風に車の中で現場や人の愚痴やこぼれ話を聞くのは日課のようなものだ。仕事はそんな風にいくつもの理不尽さや意味不明さであふれ、まわっている。人たちは皆大体勝手で意思疎通を図るのはたやすくない。しかし最終的にはお金という対価があるからこそ、それらを接合させ、受け止める。お金が発生することで、まわる。その間には人やものや時間や空間がいくらでも割り込んできては入り乱れるが、結びを得ることができればそれで一件落着する。

午前中で大体のつくりものは終える。アルポリ床ラミ出力、カッティングのリタック、出力だしなど。あさいさんは絶賛体調悪そうなので午後には車に荷物積んで早々にあがることに。帰ろうかと思ったけど流石にかなり早いのでTOKASへ行くことにした。お茶の水から歩いて行く時順天堂大学病院の植木ゾーンを通るが、そこの植生が雑多にもしゃもしゃしていていつも目を奪われる。

予兆の輪郭第2期の展示、1期も見たかったけど終わってた。でも最初からミヤギフトシさんの作品が特に見たかったのだった。今まだ小説を読み途中であり、ちょうど昨日読んでたところが今回の作品においても交わったのでくいっと心つられる。オーケストラ音楽が流れるから。ミヤギさんの作品に流れる物語性はそれは内と外を分け隔てようとする窓が完全に開かれていて自分がどちら側にいるのかよくわからない状態にある。それでもその時自分はどちらかの側にいるのではないのか。写真が壁面にスライドで映し出されており左右にモニターがそれぞれある。しかしスライドの写真が真ん中ではなく右に寄っているのはなぜ?と思うが、それはハーフカメラで撮られた写真、ということなのかな。それも物語なのだろうか。イギリスで撮られた様々な場所、おそらく人は1枚にも写っていなかった。縦フレームで撮られた写真、ピンボケの写真もあれば水平のしっかり出た気持ちの良い写真、基本的にははっきりと撮られた写真が多いように感じた。君や彼が入り交じり、どれが、どこが、誰の視線なのか見失ってしまう。なんとなく頼りなくも見終える。サマセットモームの英国諜報員アシェンデンからの引用が気になる。読んでみようか。

他にルシアナ・ハナキ、エリサ・カルダナ&長坂有希の作品が気になった。けれど幾らかの物足りなさ。滞在制作の成果発表というのはそれはまた随分試されるものだなと思った。平日の午後、人は全然いなくて最後の最後にもう一人の人に出会った。平日の午後、それだけで時間も空間も急に広がり膨らむ気がして、なんだか贅沢なおおらかな気持ちになるのは不思議だな。

日記を書くだけで十分時間が取られる。毎日必要なものを買い物してはお金がなくなる。それでもまた次には買い忘れているものがある。そう言えば電車の中で日記を読む会で録音されたボイスメモをイヤホンで聞いた。読まれる日記の固有さ、それぞれに違う手触りのようなもの。日記は自分にとっては自分に語りかけるもの。読み上げることは、そこに恥ずかしさがある。あれ、なんか、もうちょっと思ったことがあったはずだっけど忘れてしまった。やはりすぐその時にメモしておかないとだめだな。

湯船に浸かりながら、岐阜の友達のことを思い出した。色々思っては、やめる。思うことを、やめる。どうゆう態度をとることが自分にとって素直なことなのか、もはや、どれをとったって嘘くさくて、無理してるみたいで、仮面をつけてるようで、わからないと思う。彼の前で正しい自分であったことなんて一度もないのか?それは誤魔化しだろうか、偽りだろうか。考えたくないのに、考えるらしい。