木曜と金曜と続けて日記を書けなかった。書かなきゃという思いはあるので頭の中で文字を打つ音を立てているが仕事で疲れてしまってもう余裕がなかった。なんかもうずっと仕事が詰まっている状態が続いていて、しんどい。ぬるっと休める日々がないと、それは土日の休みで補給されるものではなく、別物としてないと、毎日のやりくりがままならない気がする。こうやってたくさん働いたら果たしてボーナスが増えるんだろうか?それで何かを買うことを想像してワクワクすることも、辛さに耐えることもできるだろう。けれど、それがしたいのかといえば、なんだか違うような気もしてしまう。それより私は毎日日記を書けた方が安心するのではないか。もちろんもらえる、もらうべきお金はもらいたい。老後のための2千万とか、そんなこと示されてもなんの準備のしようもない。したくなんかない。お金を蓄えておくことに特別の希望もない。安心もない。いつか買いためたものを売ったり捨てたりするのかもしれない。壊れたり燃えたり流れ去ったり。買ったことを後悔するのかもしれない。それでも今は買えるものを買ってお金を使って、いつ死んでもいいようにいたい気持ちの方が多いだろうか。貧しさってなんだろうな。なんか書いていることがどんどんずれていく。仕事がしんどいと感じるのは、つまり体がしんどいのだ。体がしんどいと、気持ちもしんどい。

しかし昨日は行くのだと決めていたフィンランドのセラミックアーティスト、ルート・ブリュック展をステーションギャラリーへ見に行った。予想通り混んでいたが、それでも結局仕事終わりの疲労感がある中でみるわけでそんなに意気込んで見る気は無かったからそこまで気にしなかった。3階は1950年代の陶板作品がずらり。日常の風景や動物、聖母子像などの宗教的イメージ、個人的なものから普遍的なものまでが様々な色の釉薬、技法によって表現されていて、とてもかわいらしくも荘厳さがある。鳥の群れの表現を見て南桂子を思い出した。いびつな造形は安定感がなく、横一列にたくさん並んでいるとなんとなくぎこちない感じを受けてしまうが、一つ一つの作品の前に立つととても引きこまれる。すっと静けさが訪れるように。でもなかなか人が多くて立ち止まらない。3階だけ撮影可ということでスマホで撮りまくる人たちも多い。図録買った方がきれいな写真ですよ、とはつい思う。撮りたくてたまらない衝動の発露が湧き出ているのを見るのは面白い。かわいいちゃぶ台にのったカリフラワー?

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2階では60年代以降の抽象的な表現へと変わり、深まっていく。色だけでなく、光と影、白と黒とその中に置かれる色彩、幾何学的な模様を大小無数のタイルで形作っていく。より大きな視界へと移っていくよう。じつに触りたくなる凹凸。大きな壁面作品は一体どれだけのタイルが使われているんだろう。そしてそれだけのタイルが隣りあい積み重なっているので全体のゆがみがまるで渦を巻くように蠢いているようにも見えた。微かな流動性があるようで、そのたゆたう感じがフィンランドにある風景なのかもしれないなどと想像した。タイルの光と影とそこに落とされる色彩が独特のリズムを構成していて、冷たくもあり温もりでもあるような。近くで見るのと遠くで見るのとでまた全然違う印象になるのもおもしろかった。

帰りに東京駅の外に出て見た。駅自体と駅前は照明の演出でグッと明かりがおさえられていて東京でいて東京じゃないような、異様につくられた場としての強力さを感じた。東京でこんなに演出された暗い屋外あるかなと思った。落ち着くよさがあると思った。明るいのはやはり疲れるんだろうな。でも、ふと隣のビルを見上げるとなんて数の電機。これ本当に全部必要でついてるのか?と思ってしまう。異様だと思った。こっちとあっち、全然違う思想でいるみたいだ。

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今日は都現美に行こうと思っていたものの、日曜から6連勤したのが効いててなかなか動き出しが遅く、洋服もしっくりこない、それでも準備して、雨ざあざあだけど、行くか、となんとか行くつもりなった頃にはすでにだるさに傾きつつあった。一旦外に出たのに、やはり風が強いし雨も強いしと思ったら行く気が失せてしまった。明日は明日で一日用事があるからもう今日行かないと見れないんだけどまあもういいか、見れなくてもしょうがない、と言い聞かせてやめにした。早くに見に行っておけばよかったものだ。ダメだなと思う。ディスタントを読み終えた。会話がひたすら続いて書かれるところがとても良く、心地よい。誰の発言なのかわからなくなりそうになりながら、リズムよく転がっていく。追いかけるような逃さないこまかな描写。光をよく見ているんだなと思う。どんどんこの本の気持ち良さに落ちていってしまうようだった。こんな風に人のこころは揺れ動くのだなと、自分もそれで動かされる。

 

日記を読む会の録音を聞いていて、自分の日記には他者が全然出てこないのだ、他の人たちの日記には出てくるが、と思うと、自分以外の人という人たちはそうゆうものだったりするのだなあと知る。人付き合いが少ない私はさみしい人なのか、と思うけれど、そう思えばさみしい、考えてみればさみしいと思うけど、考えていなければそれで平然と進む日々を送っているのだから簡単には言えない。ただ、自分は他者のことをよく知らないままで生きていってしまうのかもしれないと思う。人を知りたいし関わりたいとは思っても、自分からそれを積極的にしようとまではないと思う。そうゆう手段を知らないのだろうか?

その手段を平然と使いこなしている人たちは眩しく、羨ましさがこみ上げる。別のホシの人たちかのような、違う空気を吸い違う言語を操っているかのような。急に遠近感が生まれる。私がその手段を知らないのは、私には使いこなせないからなんだろうと想像する。自分には、ない、ということは少し胸が痛い。けれど、それが自分にちょうど良くなってしまった、ちょうどよくしてしまったんだよなあ、と過去に目配せをする。もうそれは後悔などではなく。このような人間もいる。

というようにいくらでもこうやって自分を誤魔化すことができるようになった。若い頃の苦しさに比べたら随分マシだ。もうあの頃のように同じように苦しむことはできないのかもしれないな、と思う。それは幸福だろうか、ラッキーだろうか。よくわからないと思う。最近よく思うのは、少し前にも書いたかもしれないけど、自分を否定し続けた末に残った今のこの自分というものの空っぽさについてだ。私は一体何をしてしまったのだろう?といった怖れさえ浮かび上がる。いやそれとも一切関係ないのか。いつまでも答えを見つけられそうにないことがこわい。けれど、怯えることもできないような。