液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

朝起きると新幹線は普通に動いていると、会田誠さんのツイートで知る。なんか、ふつうに起きてしまったな…と、本来なら6時半のこの時間の新幹線に乗ろうとか思ってたはずだけど、前夜の台風で気疲れしたのでそのへんまあいいか朝になってみないとわからないし、なあんて態度でいたのだった。とりあえずいつも通りに用意して駅まで向かうことにする。風はあるが晴れていて暑いくらいに日差しはまぶしく届いていた。が、駅に着いてみると在来線は動いていないとのこと。なんと、そこは全然確認せずに出てきてしまっていた。うわあ、、と思うがどうやら地下鉄は動き始めてるらしいので移動した。おおほんと動いてた。なんとか東京駅着けてほっとする。チケットショップで買っておいた券を座席指定して新幹線に乗車。在来線しかない駅だったらと思うとぞっとした。名古屋駅でロッカーに荷物を入れておくため一番広いロッカー広場に行くと、なんとか最後の数個ギリギリしか空いてない状態だった。どうも人が多いし、小さい荷物だから良かったものの大きい荷物の人は空きがないようだった。それから豊田市へ地下鉄に乗って移動する。やはり一度でも来てるところはなんとなくでも記憶の頼りがあって助かる。記憶は助かる。まずホーツーニェンを見て、豊田市美術館、旧東高校、最後に駅近辺でいくつかを見た。高嶺格さんの作品がとても良かったと思う。それは言葉にするまでもなく体と心がひとつになってそう受け入れていたこと。晴れていて、日差しは確かに強いのだけど、翳りを感じる、夏のような世界はなく、ここの場が幾日も過ぎた事を感じさせられた。地下鉄に乗り栄へ。その道中、夜に行こうかと思っていた高山明さんのライブイベントのチケットが売り切れいていることに気づいた。あちゃー、すっかり気を抜いていた。無料という事がまず頭にあり、また入退場も自由で3、4時間やるという事でなんとなく広くゆるい気でいた。いやでもよく考えたらキャパだってそんなに広いわけじゃないんだろうという気がした。なぜか全ての考えがおかしかったことにようやく気付いた。とりあえずそのイベントに行こうと話していた友達に連絡をした。そして愛知芸術文化センターへ行った。この時点で16時50分くらい。18時までの開館なので、とりあえず田中功起さんの作品に絞ってみることにする。それはそう決めていた。聞いていた通り、広い展示スペース。観客も多い。入ってすぐの映像はどうやら部屋が広そうだから明日にしよう、そう思ったのは明日の昼間の方がもっと人は多いのではないか、それなら今はもっとスペースの小さい映像を見ておいたほうが、と考えたからだ。順番はあるだろうが必須でもないだろうし、と目に入ったところの映像を見た。それが数字で言えば2だった。それで30分以上あっただろうか。途中から椅子に座ってみた。知らない人たちと、皆それぞれに始まりを持ち終わりを持った眼差しで共に見ている。この状況は、なんだ、と思うし、悪くない心地がある。知らない人たちとまるで時を共にしている。そのあと見たのが1だった。一番小さく、椅子も少ない。これを見終える時には閉館のお知らせが流れていた。友達からは返信が来ており、友達も同じくチケットを取っていなかった。まあそんなもんだよなあ。同じく芸文センターにいるという。とりあえず下の階に降りたら落ちあえるよう連絡するか、と思いエレベーターに向かおうとしたら、友達が向こうから歩いてきたので連絡する手間は省けた。3ヶ月以上ぶりに会うが、もはやふつうだ。おっ、あっ、よっ、といった気づきの確認の感慨の手応えがうっすらとある。どうする?という答えの出しようのない問いのやりとりののち、とりあえずひつまぶし食べようってことになり名古屋駅へ移動する。前にも一緒に食べた近鉄へ。でもなんかたぶん友達はそんなこと忘れてしまってるのではないか?とうすうす思う。でもそれを確かめる会話をするのがめんどくさくて、そのことは自分の胸にとどめておくことにした。友達は4000円出して吸い物を肝吸いに変更していた。私は3200円。このように高いものを面と向かい合って食べているというとき、学生の頃にはふたりでこんな高いものをたべるなんて想像出来なかったものだ、ということを思わずにいられない。例えばこの先もずっとこのように思うのだろうか、そんな状況が?あるの?うれしそうに食べている姿が印象的だ。私はそういえばお昼を食べていなかった。山椒を使うのを忘れていたことに、食べ終えてから気づいた。よく考えたら円頓寺エリアに行けたし行こうと思っていたはずなのに、友達と会ってしまったらそんなこと吹っ飛んでしまい、まあいいか、としてしまった。一人でいるときの気の張りと誰かと一緒になったときの緩みようの振り幅がでかいなおと思う。ライブパーティは生中継あるしってことで友達の家へ行くことにする。そしたら電車がちょうど遅延中で、自分の住まない土地での遅延状況はなんだかのんびりしていて間延びしていて東京および近郊のようにそんなにピリピリもしていないし、混乱もしていない。あらためて東京は異様だと思う。だいたいが量を超えていて、それが東京でありそこから発生するものはおもしろくもあるが溢れ出てしまって歯止めのないものまでもが発生しているような、それは自分も蝕まれ、危険さを感じるような。地方にもそれとはまた違ったものがあるだろう。この緩慢なものから生まれるものが。けれど私はそれを知らない。ぼんやりと眺めていられる景色。なんとか電車が動いた。おりた駅のコンビニで明日のチケットを発券する。前に来たときよりも駅から家までの距離は短く感じられた。2度目だから、それだけで1度目とは違うのか。早々に中継を見る。なるほどこんな感じなのか、と見る。見終えて、眠くなったのでシャワー浴びてTシャツを借りる。無印のメンズのS〜Mサイズはなんか良いゆったりさがあるようだ。自分の体にフィットしないというフィット感。いつの間にか友達の方がすっかり髪の毛が長くなっていた。ということに風呂上がりの姿を見て思う。なんか、急に、老けて見えるような気がした。そう見えるということはつまり私も老けただろう。まあ私の方が1.5歳くらい若いけど。こうやって老けていくのかと思うと、順当なのだと思う。けれど私たちの間にあるこの空気感は学生の頃のままのようで、あり、いや、もう全然違っているのか、そんなのは判別ができない。ただ私たちは相応に老けた。私は生理3日目くらいだったのでセックスはしないけど。交流のようなもの。それさえも変わっている。この関係やコミュニケーションについて考えようとすると笑ってしまう。何って定義が効かないから。それは何でもないし、何かであるっぽくもあり、でもやっぱり何でもなくて、ただ、これを誰かに説明しようとしたりしても全然言葉にできないなと思う。けれど別になんということはないことなのだ。大学時代からの友達と今になっても会ったらセックスをしているのは学生の頃と同じようにさみしいから、それを提供しあうことを許容しているから、そんなようなものかもしれないし、ただ人体観察の確認なのかもしれない。一人では味わえない快楽を共に提供し合うということ。