液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

台風が去っていき、豊田と名古屋にあいちトリエンナーレを見に行き、父方のおばあちゃんの葬儀が終わった。私はなにもしていなくて、それでもただ身体だけがある。その身体が疲れているようだったり、するけど、ひとごとのようでもある。私もさっさと死にたい。と、むなしくなる。父が最後にふたつ心残りがある、東京オリンピックを見せたかったこと、ひ孫を見せたかったこと、と言っていた。姉は年末に出産予定だ。私は無関係だ。私はそこにいるのが嫌になった。私はいないようなものだった。私は自分で自分が心底いやになる。さんざんに自分のことを否定してきた。自分が存在することに意味をつけるためには、否定することができないこの存在を認めるには意味づけをするしかなくて、その意味は否定することでしか成り立たない。自分で死なない私は生きていることを選択している限りそれでも生きていることを説明しなければいけない。それは存在の否定でしか成り立っていないのだと気付いてしまったら、そうやって成り立たせている自分に気づいてしまったら、あっという間にみじめさに包まれてしまった。そんなことはしてはいけなかったとその時になって後悔を覚えてももう遅い。あまりにも遅くて、私はいつだって自分を否定できる理由を探している、適切な解答を買わなくちゃいけない、それを私は自分でわかっていますよと言えないと、言えないと私は自分を存在させられない。恋人もいないし結婚もできないし出産にも縁がないのはルックスも悪いけりゃ中身もひどいものだから、幸せの象徴を手にできるわけがないのは自分でよくわかっていますからどうぞなんの心配もしないでくださいと堂々と平気な顔をして言えなければいけないのだ。こんな顔で身体で性格で、生きてること自体が間違っているのだから。何度も何度も心のなかでそうやって唱え続けなければいけない。結局はそれを自分に言い聞かせているのだ。そうやって何度も何度も自分を切り裂いている。自分で自分をそうやって傷つけている。そうしないと生きてこられなかったような自分には、なんにもないのだと思う。努力することも必死になることもできなかった。また明日から仕事があり、家に帰る生活。インターネットを見て、焦り、不安になり、優れたものに出会いたい渇望にゆさぶられては、何も得ていないまま1日が終わっていく。暗くなってしまった。でもそもそも自分は暗いひとだった。それが本当の実際だった。親戚などに会うのが子供の頃から決定的に性に合わない。両親や姉夫婦でさえ最近は苦痛でしかたがない。自分はこの人たちのようにはなれない距離を感じてしまう。自分だけ消えるしかない。