液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

今週は体調すぐれず疲労がたまる一方しかしちょうど仕事は立て込んできて、夕方から電車でつくばまで物を持っていかなくちゃいけなくなったりもして肉体がつらい。家に寝に帰るだけになるのってほんと働くだけしかしていない。そして土曜は午前中だけの現場を頼まれるもなんだかよく知らんが場所のダブルブッキングにより1時間もかからずに終わってしまう。デニーズでお昼を食べて東京駅まで送ってもらい、銀座でギャラリーを見て回る。疲れてるのでひとつ見たら十分かもと思いつつ良い展示を見ると頭が冴えてきてしまうのでむしろ麻痺して無理してしまうというか。天気があまりにもよくて、ああなんか久しぶりにこうして歩いているかもと思った。本屋行って花屋行って帰った。疲れたが少しすっきり。でももう今日はくたくたなのでしっかり掃除などして昼寝。そう言えばチェルノブイリを全話見終えた。むしろスターチャンネル無料の7日の期限を1日すぎてしまったので1ヶ月分払わなきゃいけなくなった。最後まで異様なこわさだった。でも終始あったのはこのドラマから受け取る、立ち上がる虚構なのにまるでリアルということだ。東さんが石牟礼さんの苦海浄土の話を出した時、ああそうかそうだそうだと思ったんだよなあ。あれは決して実際の聞き取りそのものじゃなくてフィクションだということ。石牟礼さんの綴ったものだということ。なのに、読んでいてするするとまるで話者が喋っているリアルとして受け止めてしまう。せっかくなのでまた少しずつ見ようか、しかしこわい。そんなこと言ったら何もこわく無くなるくらいに。

 

アダルトチルドレンについてもう一度よく探るべきではないかと思ったのは明らかにハワイに行ったことによる。まあでも不思議なもので、いつもこうゆう状況になった時には前々から薄々おかしいとは思っていたのだ、といった感覚がわき上がることだ。そう思うと普段の中で一体どれだけの物を見逃し、見過ごして、自分を適当にごまかしだましているのかということがわかる。でも、それを見極めるのは難しいことだとも思う。自然に思っていることなのか、無理に、意識的に思おうとしていることなのか、を、状況に関係なく判断できるような術は自分にはないだろう。自分の中で親に対する思いはもう片をつけたのだ、片をつけるのだ、といった思いに20代後半になっていた。リセットして、仕切り直しだと。これまでのことも水に流すような気持ちで。自分は親に求めすぎてはいけないし、見返りも期待してはいけない。介護を見据えるくらいの気持ちでいればいいのだと。でも、たとえ自分がそう思っても向こうが変わらないので自分の意思などいとも簡単に崩される。自分でもどこか家にコントロールされてしまうような窮屈さが嫌だとは思っていた。それは女であることが余計にそうさせる気がしたので男だったらきっと違うだろうと思った。ここにある複雑さを私は言葉にすることができない。圧倒的に、できない。あるのに、吐き出せない。それはなんだ、と思う。あまりにも積み重なりすぎていて、押しつぶされてしまっているから、それを取り出せない。そして今一番表層にあるのは嫌悪や軽蔑だ。それだけになってしまうのは自分にとっても棘であり重苦しい。嫌だ、嫌いだ、だけでは済ませられない。

そしてふと思ったのだ、私が対人関係において抱く心地悪さや奇妙に動く自分の心理はもしかしてこのことと関係があるのではないか、と。まあそれも前々からうっすらどこかでは思い描いていた気がする。決して初めて気づいたというわけではないが、確信を持つことはなかった。でも考えて見たらそうだろう。親との関係がまず築けてこなかった私が他者とそううまく繋がれるわけはない。というか、他者に対するおそれはそのまま親に対するおそれと同じだと、そう思えてしまったのだ。少し前から、私は小学生の頃には自分はできの悪い、親を喜ばせられないダメな子供なんだなと自覚し、中学生の頃には自分みたいな人間が子供を産んだりしたら大変だから産んじゃいけないんだろうと思っていたが、そうゆう思考はなぜ育まれなければいけなかったのか、そもそもそんな思考になっているのはちょっとおかしいよな?ということが気にかかっていた。そう思うようになったのは、その子供の頃の思想に自分はずっと支配され、その通りに生きることをまるで無意識に選びとっている、というか、そうしか選べなくなっているのではないかと気づいたからだ。子供のころに自分だけで見つけ、誰にも言わず、決めつけた思想はこれほどに自身に強く影響を与え続けているのかと、思わざるを得ない。こんなのは仮定に過ぎない。だが私にはこの仮定を信じようとするしかない。信じようとすることに、まず興味がある。

なのでまた本をいろいろ読んでみようかなと思いつつ、やはり、こわい気持ちもある。果たして自分一人でそれで何か掴めると言うのだろうか。けれど、そこを探らないことには自分はずっと同じように人に対して疑ぐりを持ち、断定を持ち、自分の満たされなさに言い訳をし続けて諦めで慰め続けなればいけないだろうと思う。そうゆうのはもううんざりだ。だからどうにかしなくてはならないのではないか、と思う。しかし険しい道だな。うーん、どうやろう。いやだなああ。とりあえず、たしかに病院でアダルトチルドレン診断を受けた日のことを日記に書いていたよな?と思って漁ったら確かにあった。そこにはもうすっかり忘れているようなことも多々書いてあり、助かる。しかしやはりその頃の日記を読むのは一番辛く、読みたくない。気持ち悪いから。うーん。アマゾンでアダルトチルドレンって検索かけるだけで既にこわい。タイトルがみんなこわい。笑ってしまう。そしてこわくて泣けてしまう。