液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

昨日までで怒涛の製作が終わり、また新たな製作はあるがひと息つくことが許されてほっとする。今後もこの調子、発注から納品まで日にちが少ないものが来るとライブの予定入れててもちょっと行きづらくていやだなあと思う。まあ最近はあまり行ってないから平気だけれど。

午前中、あさいさんのちょっとした一言でなんだかやる気が失われる。頑張って一生懸命やることが馬鹿みたいに思えてきちゃってどうでもよくなってしまう、もう何もできない生産性のついてこない人になりたくなる。こうゆうところは自分のだめなところだと思うが、自分がやろうとしていた気持ちがぽっきり折られてしまうと、あ、そうですか、と、ずざざざと波が引いていってしまうようだ。それを止められないこどもっぽさ。結局嫌な気持ちになるのは自分だ。もやもやが大きくなっていく。頭がどんどん重くなってきて、首のしわが増えていくようだ。全身しわだらけになり、しわだけになり、中身なんていつのまにかなくなっている。

 

あさいさんは夜現場があるので15時過ぎで会社はしまう。帰りに無印によって間仕切り用のカーテンやイデーのクッションカバーを買う。イデーで暮らしたい。幸せがありそう。洋服の売り場行ったらやけにサイズや色切れしてるものが多く良品週間の威力は改めてすごいと思う。本屋に行ってうろうろしてアダルトチルドレンや家族関係の本をいくつか見る。やはり、うわ、うちのことが書いてある!みたいなものを見にしてしまうとこわくてこわくて読みたいけれど読めない。果たしてこんなんでやっていけるんだろうか。自分がそれしか知らないこの育ってきた家庭は、それが当然だと思って、嫌だと思いながらそれしかないのだと思って従い、受け入れてきたが、やはりいくつものおかしさで構成されすぎているのだと思ったら恐ろしくて仕方なくなってしまった。そう、前々からいくつかおかしいのだとは思っていたが、おかしさなんてどこの家にもあるとおもっていた。でも、うちにあるおかしさは他の家にはないことも多々あるようなのだ。大学に入って他の人たちの話を聞くとどうもうちとは違う家庭はたくさんあるらしいことを知るがでもそれは各家庭すべて違うのだと思い、自分の家もそのひとつにすぎないからとおもってきた。他の家の話を聞いては羨ましいと思った。健全な家族、健全な子育て、明るい家庭、でもまあ私もなんとか生きているのだから、そこまでおかしな家ってわけでもないだろう。そう思うことは明るい希望で願いで祈りだっただろうか。それは良い肯定のはずだ。けれど、そう思うことは我慢でもあった。なんでもかんでもまっとうな理由づけを探して、ことばで抑え込む。自分で自分にそう課していた気がする。でも違うそうじゃないんだ、それじゃあ違うんだ。そのことはうまく言えない。子供の頃からずっと同じことが繰り返されている、子供の頃とまるで同じ気持ちにさせられているのはなぜか?そう気付いたとき、それがこの家の仕組みなのだと思った。ずっと自分で自分の存在が悪いのだと思ってきた。自分がこの世に生まれて、生き続けてきた過程のひとつひとつ総じてすべての悪の根源は自分の存在自体なのだと。生きてることそのものに悪が含まれていると。内面や精神の悪さがすべてを左右しているんだと。でもそこに同時に存在してきたどうもいやな気持ち、というのはなんだろうか、それは、無視できないものだ。そのいくつものいやな気持ち、それがあるから私は自分を悪いこどもだと位置づけてきたはずだ。いやな気持ち、というものを自分の中で対処するために。そう考えることは、悪いことだろうか、おかしいのか、異常なのか?でも、もう、自分でも自分のこのおかしさをどう扱っていいのかわからないのだ。まるでさっぱり私は自分がわからない、意味不明だと思ってしまう。なぜそんな思考を、行動をとるのか、手に負えない。それがいやだから、だから家のことを振り返らなければいけない。昔からあるACのワーク本をやるべきだと思うが、こわくてこわくてなかなか買えない。本屋で泣きそうになる。