迷ったけど最近また日記を書くことに奮起しているのもあったしなんか知らない人の話が聞きたい…という自分の気弱さの波もあって、直前で申し込んだ金川さんの日記を読む会に行った。開催場所の千葉のギャラリーtidepoolにも行ってみたかったというのもあり。でももう3度目の参加になるのでどうなのか、よくないのでは、という思いもあって気持ちが右往左往。よくないのでは、と思うのは、固定メンバーになるのはなんか違うのではという思いが少なからずあるからで、でもいろんな人の日記を知りたいという欲求もあり、結局まあいいか深く考えないでとりあえず能天気になろうということにした。考えてもそれは自分の気持ちでしかない。ただ、当初は日記を読むことにかなり抵抗や危機感もあったはずなのでその辺は変わったということか。でもやっぱり最初は読むのに緊張したなと思う。読み終えると息が苦しいのだった。

これまでにもいろんな人の日記を聞き、知り、へえ、そうか、日記といえど色んなかたちがあるんだなと思ったし、日記を読みあっただけでその前までとは違ったコミュニケーションが生まれるというか、簡単に言えばうちとけられる、みたいなものがあって、それが初対面なのに生じるというのが面白くて、独特だなあと思う。私は日記の何が好きって、一人の人がたったひとりでノートや画面に向き合う時間があるのだということに触れられるからなのだ。誰とコミュニケーションとるわけでも伝えるわけでもないものに向き合う時間がその人にはあるのだな、ぜんぜん知らない人だけどその人にはあるんだなと思うときゅんとしてしまうし見知らぬ人ばかりの雑踏の人混みのなかにもそうゆう時間を秘めた人がいる気さえしてきて、あたたまる。またそれは日記に向き合うのは自分ひとりではないんだなあという気待ちからほっとして安心もしている。

日記の量の短いもの、長いものといったって人それぞれ違うし、読み上げるのにためらわれるかためらわれないかといった線引きも人によってそれぞれ違う。でも、それぞれがその個人の中では手ごたえとしあるものなのだなと思うときゅんとする。しゃべり言葉では誰かにうまくちょうどよく適切に伝えなきゃならないし理性的に話すよう努めてしまうけど、日記ではそうゆうのが全部無視されて許されている。でも、それでもすべてを日記に書き入れることはできず何かを書き何かを書かない取捨選択をしてもいる。書くべきことがあって書いているのだろうか。そうゆうこともあれば、記録でもある。

帰りの電車の中で言われて、あーそれはそうなんだよなあと思ったのは、私はどこか自分のふがいなさとかみじめさをありのままそのままに書くこと、描写そのものを避け、俯瞰したかのような抽象的な出来事、描写に置き換えているところがある。それは、自分のズルさだと思う。汚いことを汚いことそのままに書かない、書けないでいる。結局自分のいやらしいとことか、横柄なところとか、誤魔化しているところとか、それをむき出しのままには書かないで自分の表面的なきれいさを守っているんだろうという気がする。自分はこんなにだめな、悪い人間なんですよということをアピールしたいのに実際にはぜんぜん反対のことをやっているような、ものか。自分がさも純なきれいな人間かのように見られるのがすごくいやなのに、でもそう見られるように仕向けているのは自分自身の振る舞いなんだなあと思える。そう思うと、すごく恥ずかしいというか、なんてうさんくさい奴なんだよと思えてきた。でもどっちにせよ自己演出なんだなあ。私の場合、日記を公開しているというのがあるからそんなことになるのだろうか。でも、私自身の日記としての体裁はこんなもの読んでる人はいない、なのであくまでも読み手はいない設定だしいたとしてもその人がいつどこで本当に読んでいるかなんてわからないし読まれようが読まれないだろうがコミュニケーションではないから互いを意識することはおかしいのでしない、といった前提がある。まあ完全にこれが実行されてるわけではないと思うけれど、そうつとめることで日記を書き続けていられる。ようは私は人に話しかけることが苦手、人に私なんかの話を聞かせるなんておこがましいことは出来ない、こんなくだらない話を聞かせられやしない、だから日記という場所に話しかけているというのが始まりにあるのかもしれない。

なんだか喋りすぎたような気もするし、実際こんなに日記のことだけに熱中するなんてありえないので頭がおかしなことになる。この同じ時代に時間や手間を費やして日記を書いてる人がいるんだということに感動するし、また違う時代に書かれた日記はより一層重みがあって威厳があって尊い。書き主の消えた日記はまるで軽くなって宙に浮く。書き主によって読まれる日記はさえずりのようで、ひとりひとりのその声をよく聞こうとする。