液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

私は結局自分に対してもかっこつけてたりするんだろと思う。日記、文字にするという時点でそれは発生しうる。でなんかその無駄なハードル上げをやめたい気がする。できるのかどうかはよくわからない。それが悪いとか良いとかいうことも測れない。けれどやめたい気がする。

 

そういえばこないだのROVOのライブおわりにkさんと恵比寿駅まで歩いてJRと地下鉄のわかれめのとこでいつもそんな感じだが結局立ち止まって喋ってて、でも最後そろそろってなったとき、もうこれで良いお年をかなー?ってなって、ああそうですねーってなって別れたが、私にとって良いお年をーなんて言うのはきっとrさんやkさんが最初だったんだよなあという気がして、それは自分にとってそれまでとちょっと違う、知らなかった世界をのぞき見たような、そして踏み入れた出来事だったんだなあと今頃になって思う。ああ、こうやって、そうやって、良いお年をーと言いあうんだ、言えば良いのか。それは少し背伸びをするような、でも言うのはたやすく言ってしまえばそれでそれだけで気軽に仲間入りができて。そんな10代の頃の自分を少し遠くから見つめる感じ。まあkさんと相変わらずそんなようにして12月の夜に別れを告げている、ということになんだか笑える気がした。へんなの、と思いながら納得をする。帰り道、さんざんROVOが好きだなって話をした。10年くらい会ってなかった時間があるのに、それでもそのままそれ以上にROVOを好きでいられる気持ちが自分にもkさんにもあって良かったなあと思う。ROVOの長年のファンの人たちはみんな愛情深いなあとなんとなく思う。主たるファン層は私やkさんより上だと思うけど愛情を惜しみなく示す態度においてはみなさん子供のように純真な目をしているように、どうも見える。

 

午前中、ラジオのすっぴん!で発達障害自閉症、知的障害のある子供についての相談のコーナーを聞いていたら、自分が子供の頃だって同じような感じだったよなあと思う、ということがよくある。落ち着きがなくて、じっとしていられなくて、掛け算が全然できないと家庭訪問で先生に詰め寄られ、よく学校に行きたくないと暴れ、柱にしがみつき、ヒステリックで感情の起伏が激しくて。それはもう何年も前から、発達障害といった言葉をよく聞くようになってからそれは自分もそうだったのではないか?と思わずにいられない私自身の描写だ。でも私はもう随分と体の大きな人になってしまった。子供の頃のそれらと中身は今もほとんど変わってないと思うけど、見た目からすれば五体満足に機能していそうな身体や当然のように備わってるであろう熟した精神を持っているのだろうと見られるだけの身体が私を構成している。けれど実際はそんなことなくて、ただ身体が大きくなっただけにすぎない。私の内面はずっと幼く、幼いまま成長することができなかった。ちぐはぐな異物感、それは今になっても時々感じる。

でも時々で済むくらいには私は身体の大きさにどうにか合わせた自分をやっていられている。随分遠目で見れば、なんとかそれらしい体をなしているくらいには。だけれど、自分の欠損を感じずにはいられない、それを意識せずにはいられない。大学を卒業した後の数年間は欠損のことばかり考えていた。今はいくらかネジが足りなくてもまあそんな人も沢山いるから自分もそこに紛れていればなんとかやっていけるんだなくらいに考えている。それは日々を転がしていくには必要な視点だけど、自分にとってのその足りなさ、欠落しているそのものを見つめることはまた違う。普通だとか、正常だとか、自分はそういったものからいつも外れている、自分にはできないことばかりが目の前に並んでいて、だからダメな存在なのだと受け止めてきた。

無職で病院に通っていた頃、ハートネットTVで見る大人になって発達障害だと分かった人や、いじめにあって学校に行けなくなった中高生たち、LGBTの人たち、そういったマジョリティではない人たちを見ては泣いていた。決して自分が同じ状況だから、立場だから、と言うわけではないのに、感情移入せずにいられなかった。それはその状況における生きづらさが、全然違う人なのに、自分と同じだと感じていたからだ。そういえば、だから、それからハートネットTVはどんな話題であろうと見なくちゃいけないと思うようになったんだなあ。薬物やアルコール、ギャンブル依存症の人たちだってそう。決して自分と同じであると言う問題が扱われていなくても、それでも救われる気がしていた。苦しみは自分だけのものじゃないということ、そういったことに。話が随分それた。

子供の頃の私は聞き分けが悪く(今も悪い)よく暴れていたのでよく叩かれていたし、よく家の外に放り出され、雨の中靴も履かずに歩いてても放置されていた。まあとにかくヒステリーがひどかった。自分の記憶にも確かにそうあるし、お前はヒステリックだということを何度も言われていた。だからそうゆう存在なんだろうと自覚したし、意地になってそれを徹底的にやってやるんだと思っていた。でも今になって思うとこれは歪んでいたなあと思う。よくない子育てだろうと思う。まあ母もそうするしかなかったんだろうと思う。でも、だから、きつく叱りつけられたりして、まるで皮肉を言われ意地悪されてるみたいな子供と母親という図を見ると、泣いている子供を見ると、すごく辛くなる。自分がその子供になってしまう。そこで叱られている子供は私だ。お願いだからそんなことやめてほしいと思ってしまう。そんな顔をしないで、そんなこと言わないで。それは子供の私が願っていたことだ。母親は子供が屈するのを待っているのではないか?自分の手中にあるもの、子供を思い通りに操れる手綱を持っているのだから。でも、そんなことしてはいけないと思う。