液体か、涙は または水とゆめ

あなたも誰かの日記に記されているのかもしれない

今年の年末は某マーケットの仕事がなかったのでまるで暇だった。なので会社の片付けとかして、年明けの仕事をすでに製作しはじめたりして。年明け早々には普通に働き始めなきゃならんのかと思うとすでに憂うつになった。ああもっと楽に儲かる仕事がしたい。ふつうに働きふつうにまっとうな金額を得る。でも決してテンポよく常にやってくるわけではない仕事、いつも常に振り回され、仕事がどっさり来ればくたびれて、ぷっつり来なければ不安が覆う。まあそんなのは私よりあさいさんの方が気苦労絶えないんだろうと思うが。まあなんとか冬のボーナスはいつも通りでもらえたから良かった。ものの、来年はまたどうだろうなあと私は心配の方を強くしてしまう。こんなんでずっと働き続けられるのだろうか。不安は常に尽きなくて、それをなるべく忘れようと努力する。

休みになってほぼ特にこれといってすることもなくしなくちゃいけないこともない、無為に過ごしているという充実感にひたれてしまう。でも丸二日家にこもってから外に出たら、ああ外の世界はこんなにいろんな音がするんだなあと新鮮に感じられた。姉が出産をしたというので、病院へ行った。出血量が多かったのでしばらく入院が延びているらしい。母からメールが来ていたが、わざわざ会いにいくほどのことなのか、めんどうのような、という気がして2.3日連絡を無視していたが、行かないという選択をすることが一種の態度表明になってしまうので、それもそれで違うわけで、まあどうでもいいかと思って行くことにした。伯母のみっちゃんも一緒だというし。両親とまともに顔を合わせ空気を共にすることが辛いのだ。だからそれが避けられるなら気は楽だ。実際、両親とはほとんどまともに視線を交わさなかったように思う。今はまだ関わり合おうとする気になれない。振り回されたくない。自分もまた、振り回したくない。姉とはもともと仲が良いわけでもないのでやはりたいして親密なやりとりがあるわけでもなく、限りなくドライだとは思うがそれがこの姉妹間の間柄と言うものなのだから、と思う。にしても姉が母という存在になると言うのは流石に奇妙だった。気持ち悪く、受け入れがたいものがある気がした。姉はさらっとさっさと母という人になれているようだった。生後3日の赤ん坊はやはり異様なもの、存在であり、おそろしかった。だけれど指や足、爪はしっかりとヒトらしくすでに出来上がっていて、それはそれでまたおそろしさがあった。生まれてきてしまって、罪だなあと思う。生まれてきてしまうこの世界が、罪だなあと思う。それでも生命は誕生し、誕生してしまった以上、生きることが求められ、またそれに応えているようだ。生まれた時より体重は減っているのだという。それは生まれたては羊水を含んでいたからという話を聞き、ちょうど昨日ブレードランナー2049を見返して羊水的などろっとしたものをまとってうまれでる存在を見ては牛の出産みたいだな、としか連想することのできなかった自分は知見がないんだなということを思い知った。人間はやはりあのように羊水というものに包まれてこの世に放りされてくるんだろうか、それが、本当なのか。

いつ実家に帰ってくるのかという話も適当に適当に上の空で返事をしたようでしていない。あまり帰らないという返答をすることや態度に出すことに固執するのも違うし、関心のなさ、無意味さで対応したい。意味なんてない。行動の選択のどちらか、ということだけ。感情は起伏しない。させない。

駅について、特別ほしいものがあるわけでもないが本屋へ行ってぶらつくも引かれるべきものが何なのかもよくわからない。読み終えてない本のことばかり気になってしまう。本屋に本は沢山あるのか、もしくは全然ないのか。無印に行っても、特別ほしいものがあるわけじゃない。そのまま帰るのも寂しくて、スーパーに寄った。学生の頃は休日のスーパーが辛かった。家族連れの人々の光景が自分の寂しさを増幅させた。今はそうゆうのもなくなって、むしろ駅からの帰り道にあるスーパーには一人で買い物をする人々の姿があり、自分もそこに紛れ込むことによって安心する。働く人々、買い物をする人々、売られるものがあり自分は買うことができる。それだけで安心をする。しかしずっと歩き続けてて買い物し終えるという頃にはぐったり疲れている。こうゆうことがあるたび、馬鹿みたいと思う。帰宅してご飯を炊いてカレーを作って食べた。アマプラで途中だった映画ファイトクラブを見てエンドロールで流れるピクシーズに感動する。映画自体は暴力シーンが多いので好きにはなれない。ブラピも若い頃はやっぱりあまり好きじゃない気がする。男たちが傲慢で、男だけの世界に酔っているようだった。